私は、初めて律子さんを飲みに誘った。
仕事が引けて、夕方から京阪三条の「高山彦九郎像」前で落ち合い、三条通を河原町方面を歩いた。
京の夏の風景、納涼床が鴨川べりに連なり、先斗町の路地に入る。
「今日は、少し飲みませんか?」「いいですね」
「でも私はこのあたりをよく知らないので、律子さんの知っているお店を教えてくださいよ」
「そうね…劇団仲間とよく行った吉祥に行ってみましょうか」
「居酒屋ですか?」
「バーですよ。カクテルとかいろいろあって、いい雰囲気ですよ」
「そりゃあ、楽しみだ」
お店は三条通りから南の先斗町に入ってすぐだった。

客の入りは、まだ時間が浅いので二組のカップルしかいなかった。
静かな、落ち着いた雰囲気の店内だった。
カウンターの中ほどに席を取り、メニューを見る。
「あたし、ジントニック。戸田さんはお強いの?」
「まあ好きですね。じゃあモスコミュールを」
若いバーテンダーが会釈して振り返り、酒瓶を選ぶ。
手早く、彼は精密な機械のように仕事をし、私たちの前にカクテルをおもむろに押し出した。
「じゃ、乾杯」律子さんがえくぼをつくって私にグラスを捧げた。
私も、グラスを挙げて彼女を見つめた。
さわやかなライムの香りと、胸のすくようなウォッカの酒精が鼻に抜ける。
「ああ」
私は思わずうめいた。
歩き疲れてのども乾いていたのだった。
一気に半分も飲んでしまった。
「まあ、いい飲みっぷり」
大きな目を開いて、律子さんが感嘆した。
彼女も、負けじと半分くらい飲んでしまう。
そして互いに笑った。
「よく飲みに来るの?」「ううん。夫がいなくなってからはぜんぜん」「そっかぁ」
私はグラスの中の氷を見つめながら、角野さんのことを話そうか迷っていた。
「こないだね。私の上司の教授から女性を紹介されたんだ」
律子さんの表情が一瞬硬くなったのを、私は見逃さなかった。
「会ったの?」
私の方を見ないで、律子さんは低い声で尋ねる。
「先週の日曜日に」
私は正直に答えた。
「そうよね、戸田さんもいい年なんだから、そういうお話があっても不思議じゃないわ。どんな人?」
「阪大の図書館で働いている人で、私より二つほど年上なんだ」
「ふぅん」
律子さんは、すこしバカにしたような相槌を打った。「自分のほうが若いじゃない」とでも言いたげだった。
「戸田さんは、気に入ったの?」
私はどう答えたらよいものか、思いつかなかった。
「まだ、わからないよ」
「でも、お話はしたんでしょ?二人で」「したさ」「脈ありそうだなとか、いい人だなとか感じないの?」
ちょっとイラっとした言い方だった。何を怒っているのだろう?
「すまない。話題を変えよう」「別に変えなくっていいよ」「君と会っているのに他の女性の話をする私がどうかしている」「気を遣わないで」
気まずい空気が流れた。
私たちは店を出ることにした。
気が付いたら、高瀬川沿いのネオン街を歩いていた。
「ね、戸田さん」「ん?」「あたしを抱いて」「ええっ!」
私は、まったく動揺してしまっていた。
「ね、いいでしょ」「そんな、君は飯塚の奥さんだ」「かまへんの。あんなやつ」「でも」「戸田さん、童貞でしょ?」
とろんとした目で律子さんは私をのぞき込む。
酒癖がわるいのだろうか?
「ほら、そうなんだ。あたしにまかせて。その角野さんだっけ、その人とゆくゆくは寝るんでしょ。はずいよ。その時になって童貞だなんて」
ずけずけと、律子さんは言うのだった。
「さ、行きましょ。あたしの知ってるホテルに行こう」
いうが早いか、河原町通りに向かって私の腕を引っ張っていくのだった。
私は阿呆のように、律子さんに手を引かれてついていった。
彼女の捕まえたタクシーに押し込まれ、どこをどう走ったのかわからないがどうやら岡崎の南の方のラブホテルのようだった。
タクシーの運転手はにやにや笑って、律子さんから五千円札を受けとって、釣りを返す。
私はけばけばしいホテルのイルミネーションの前に呆然と立っていた。
背中を彼女に押され、入り口の階段を上る。
酔った頭で私は、これからこの女性と経験するのだという期待を嚙みしめていた。
「据え膳食わぬは男の恥…許せ、飯塚」
私は心の中で、友に詫びた。
左の腕には律子さんの腕が絡んでいた。