私は、居ても立っても居られず、スマホに登録している飯塚の電話番号を探した。
「今なら、家にいるだろう」
律子さんが、外出していたとしても夕方の六時を回ったところだった。

電話はすぐにつながった。
「もしもし…戸田ですが、飯塚さんのお宅でしょうか」
「ああ、戸田さん。お手紙を読んでくださったのですね」
「ええ、読みました。幸生君はまだもどらんのですか?」
「まだです。連絡もありません。私、心配で警察に連絡した方がよいかとも考えているんです」
かなり深刻らしい。
捜索願を出そうというくらいなのだ。
「勤め先には訊いてみました?」
「ええ、出版社のほうでも主人に出張命令は出していないと言うのですが、主人が社に無断で出張することがこれまでもあったそうです」
「それは妙ですね。やはり奥さんの言うように捜索願を早急に出された方がよろしいかと存じます」
私は当たり障りのない返事をした。
あまりに他人行儀だったろうか?
「そうですね…そうします」
しばらくあって、律子さんが消え入るように答えた。
「律子さん。一度お会いしませんか?急ですが、明日でもどうです?JR京都駅のコンコース前はいかがですか?」
私は、なんとか彼女に寄り添いたくて、強引にもそう言ってしまった。
「あ、はい。ありがとうございます。でも先生、お忙しいのでは?」
しかし、律子さんはかえって明るい声で応えてくれたのだ。
「いえ、明日は講義もありませんので、お昼からでしたら空いております」
「でしたら、お昼をご一緒しましょう。十一時くらいにコンコース前に参りますわ」
「わかりました。では明日(みょうにち)」
そういって電話を切った。
私があまりにもさらりと律子さんを誘えたのは、不思議だった。
人妻を、それも友人の妻であるのに…
もちろん、今の律子さんは私のような者にもすがりたい一心なのだ。当たり前のことなのだ。
何か、夫の情報を得たいという思いで私に会いたいのにちがいない。

律子さんには親しい友人や、親兄弟がいないのかもしれない。
飯塚幸生の親兄弟も私は知らない。
彼らの結婚式には彼の両親は来ていたが、兄弟がいなかったように記憶している。

あくる日、私は自宅マンションを九時に出て、そのまま東海道本線の茨木駅に向かった。
大学へは休暇届を出しておいたのだ。
私は、新快速で京都駅を目指した。

人待ち顔の、見覚えのある女が、めまぐるしく行きかう雑踏の中でそこだけ時が止まったように立っていた。
私は人の流れに逆らって、その灯台のようなジャンパースカートに淡いグリーンのブラウスをまとった律子さんに近づいた。
彼女は、私を認めると笑顔で軽く右手をかざしてくれた。
前にあった時よりは、若干ふくよかになって、女性らしい体つきになっているように思えた。
劇団員だから、体をよく動かすので、どちらかといえば筋肉質のしっかりした体格の女性だった印象があった。
一年以上も会っていないのだ、変りもするだろう…
「待ちましたか?」「いえ、今しがた来たところです」「ここじゃなんですから、どこか場所を変えましょう」「ルネサンスビルのレストランに行きましょう」と、律子さんのほうから提案してくれた。
私は京都が不案内なので、それに従った。
「先生は、イタリアンはお好き?」「先生はよしてくださいよ。好きですよ」「じゃあ、何とお呼びしたら…」
私は、言葉に詰まった。
「戸田さんでいいですか?」
先に言われてしまった。「はい…」

「それにしても律子さんが、明るく振舞っておられるので安心しました」
「これでも参っているんですよ」
そういいながらも、屈託なく笑っている。
「せんせ…じゃなかった、戸田さんにご相談してから、なんか気持ちが軽くなったんです」
「ほう…それは良かったのか、どうなんでしょうな」
「よかったのよ。あの人は自分のことしか考えちゃいないの」
「飯塚君はそういところがあるね。律子さんは警察に行った?」
「ええ、その帰りにこちらに来ました」「そう」
コンコースの東側の急な階段を横目に見て、私たちはエスカレータで地上に降りた。
目指すビルはその東隣である。

春の陽気で、汗ばむくらいだった。
ローヒールでさっそうと歩く律子さんがまぶしく見えた。
こんないい女を袖にする飯塚はいったい何を考えているのだろうか?
私は、ついぞこれまで女性と並んで歩くことはなかったから、今日のこの出会いが、何やら尻の落ち着かない浮足立つ気分だった。
「どうしたんですか?戸田さん、黙っちゃって」
「あ、いや、律子さんがあまりにも、その、元気だから」
私は何を言っているのだろうか?
「え?」きょとんとしたのは律子さんの方だった。
旦那が女と出奔したのかもしれないのに、無神経に別の男と歩いていることへの皮肉とも取れたのかもしれない。私の失言だった…

そのまま二人は無言でレストランに入った。
「ここ、けっこう安くておいしいの」
「そうなんだ」
客は、昼前ということで混みだしてきた。
ボーイに席に案内してもらい、私たちは窓辺のテーブルに着席した。
白を基調としたデザインが清潔感をかもしだしていた。
「夫婦でよく来たの?」「最初は、主人がここへ連れてきてくれたの」
私は、言葉を選びつつも、いったい、今日は何から話したらよいものやら探っていた。
「わたしはペペロンチーノとポタージュスープ、エスプレッソのセットにするわ。戸田さんは?」
「ボンゴレビアンコにするか。それとエスプレッソ」
注文を終えると、ふたたび私は律子さんに視線を戻した。
広い額と、えくぼのある頬が私の前にある。
「飯塚のことは、どう?」「どうって?」「浮気を疑ってるんでしょう?」「まあ」
話の核心に迫りたいが、どうやら彼女は、はぐらかしたいみたいだ。
だったら、なんで私に会いたがったのだろうか?
「戸田さんは、結婚なさらないの?」
どう答えていいのやら、窮した。べつにしたくないわけではないが、できなかっただけだ。
「いい出会いがなくってね」
そういうのが精いっぱいだった。
「主人とも戸田さんのことを心配していたのよ。学者さんで、とってもいい人柄なのに、お相手がいないのかしらって」
「私は、研究ばかりしてきたから、世界が狭いんですよ。今日のようにあなたとこうして食事をするなんてことも、私としてはドキドキものだ」
「まぁ、うれしいわ。そんなに、ときめいてくださるなんて」
「とはいえ、あなたは人妻だ。それも友人の」
「関係ないわ。あんなひと」
私は少なからず驚いた。律子さんの別な顔を見た気がした。
「それは、どういう意味?もう夫婦仲は終わっちゃってるとか」
「そうよ」
一言低く、彼女は言った。その目はどこか遠くを見ていた。
「私、警察であの人の捜索願を書いているうちに、「なんでこんなことをしているんだろう」って急に冷めちゃったの」
「へぇ」
「最初からあの人は私に秘密をたくさん持っていた。女の人とも陰で会っていたに違いないの」
「そんな…」
「そう思えば、いろいろ思い当たる節があったわ。金曜日の夜は決まって仕事で、ホテルに缶詰めだとかいって、あくる日の土曜の夕方に帰ってくるのよ。でも日曜だけ私とおざなりに過ごすの」
「そういう仕事なんでしょう?編集者というものは」
「ううん。金曜日の妻たちってドラマが昔あったでしょう?あんな感じよ」
料理が運ばれてきたのでその話は、終わりになった。
しかし、私の頭の中では、あの飯塚ならやりかねないと確信していた。
学生のころから、よく歓楽街で遊ぶ男だった。
私は修士時代、そういう飯塚に付き合わされたものだが、やがて私の方から断るようになった。
確かその頃にも付き合っていた女性がいたはずだった。
「戸田さんは、学生の頃の主人を知っているんでしょう?」
私は心の中を見透かされたようで驚いてしまった。
「え、ああ。そりゃずっと一緒でしたから」
「あの人、遊んでた?」「まぁ、そこそこ」「女の人とも?」「飲み友達程度なら」
本当に、それ以上のことは知らなかった。
二日酔いで研究室に入ってくることは何度もあった。
酔い覚ましに喫茶店に連れて行ったり、私は、けっこう飯塚の面倒をみていたほうだ。

食後のエスプレッソを頂きながら、私は律子さんの物憂げなしぐさにドキリとさせられた。
「劇団はまだ続けているの?」
私は、沈黙が気まずかったので訊いてみた。
「ええ、いつだったかしら、『エチカ』をやったあとに辞めました」
「じゃ、去年の今頃だ」
私はその公演のチケットを飯塚からもらって、一緒に見に行ったことを思い出した。
スピノザの『エチカ』をモティーフにしているが、中身はまったく違って大人の恋をシニカルにパントマイムを散りばめて仕上げた小品だった。
「外的な刺激によって起こる身体の変化と、それに伴う感情の克服だったかな。副題が」
「よく覚えてらっしゃるのね。さすが先生」
そういってコケティッシュに首をかしげて私を見た。ふたたび私はドキリとさせられる。
「私、待ちます。主人を」
唐突に、自分に言い聞かせるように律子さんはきっぱりと言い放った。
「そうだ。それがいい。あいつもそんなにワルじゃないですよ」
私は根拠のない慰めを言って同意した。
「そうかしら」
小さく彼女が言うと、テーブルの上の勘定書を取って立ち上がろうとした。
「いや、それは」「いいの。私がお誘いしたのだから」「すみません…」
私は申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、彼女のお言葉に甘えることにした。

レストランを出ると、まだ1時を過ぎたところだった。
「しかし、いい天気だ」
「そうね、どうかしら、岡崎のほうへ足を運びません?」
「いいですね。タクシーを拾いましょう」
駅前なのですぐにタクシーを捕まえることができた。
「運転手さん、岡崎公園の平安神宮の鳥居前までお願いします」
慣れた感じで、律子さんが告げた。
「ね、戸田さん、美術館なんかいかが?」「近代美術館ですか」「ご覧になったことございます?」「ええ、学生の頃何度か」「今ね、印象派展をやってるの」「ほう、それは観てみたいね」「よかった…」
国立近代美術館は琵琶湖疏水のほとりにある、モダンな建物で、前には巨大な平安神宮の大鳥居がそびえていた。
タクシーは堀川通を北上して二条城を過ぎ、右折して丸太町通りに入る。
しばらく東へ走ると御所の南に沿って、京都地裁前を過ぎ、鴨川に架かる橋の上で信号待ちとなった。
「人が多いね。やっぱり京都だ」「最近は外国人客が多くて」「そのようだ、ほらこの人たちも」
車のすぐそばを白人の観光客が十人ほど通り過ぎる。
私は、しかし、友人の細君とデートまがいのことをしている自分に不安を感じ始めていた。
いったい、律子さんは何を考えて、今日、私に会いたがったのだろうか?
流れる車窓から、美術館を見終わったらそうそうに別れようと決心していた。
「タクシー代は、今度は私が払おう…」
そう心に念じながら。