四月、文学部の新しい二回生を迎えて、私は江戸俳諧の授業を与謝蕪村から始めた。
講師のころは、「吹田市民講座」以外で教壇に立つことなどはなかった。

「このあまりにも有名な『菜の花や 月は東に日は西に』の句は、その本歌が万葉集にあるといわれています」
私は二十人に満たない学生を前にして、黒板にこの名句を書いた。
「菜の花は、今頃の季節でしょうか。春の季語です。空を見れば東の空には早くも月が出ている…そして西には今にも沈みそうな夕日だ。地上から天に及ぶ壮大な一幅の絵画がこの一句に凝縮されているのです」
私は続けて、
「東の野にかきろひの 立つ見えて かへりみすれば 月西渡(かたぶ)きぬ」
と板書した。
「これが本歌の柿本人麻呂が万葉集で歌ったものです。蕪村は人麻呂へのオマージュとして『菜の花や』の句を吟じたのだといわれています」
私は学生を見渡して、一呼吸置いた。
「しかし、みなさん。蕪村の句と、この人麻呂の歌には根本的な違いがありますが、わかりますか?」
静まり返った学生たちは、下を向いている。
「きみはどうですか?」
一番前の席に座っている、お下げ髪のメガネ女子を指した。
「あ、えっと、そうですね」
ひとしきり、彼女は空間を見つめ、続けた。
「与謝蕪村の句は夕方をうたっていますが、柿本人麻呂は朝だと思います」
「ほう。よく気が付きましたね。どこでそう思いました?」
「人麻呂の『月かたぶきぬ』です。この白文では『西に渡る』と漢字が示していますのは、西に沈むということだと判断したからです」
「ご明察。そうですね。人麻呂の『かぎろひ』は陽炎(かげろう)のことでしょう。東から昇る太陽が照り付ける夏のイメージでもあります。蕪村のうららかな春の夕べとは対照的に、これからぎらぎらとした暑い日が始まるぞという感じがでていますね」
ただ、歌意を鑑賞するだけなら、これでおしまいなのだが、人麻呂のこの歌には政治的な意味合いが含有されていると研究者などは考えている。
「かぎろひ」の歌の次に、人麻呂は「日並(竝)の皇子」ではじまる歌を詠んでいる。
これは「皇太子」のことであり、それが誰を指すのか微妙な時代だった。
後継者と目される皇子が数人いたわけだ。
阿騎野(あきの)に軽皇子(草壁皇子の皇子)に同行した柿本人麻呂が彼を讃えて歌ったとするが、この時代、持統天皇の息子、草壁が皇太子として有力だったし、その跡継ぎは軽皇子と相場が決まっていた。
しかし、それを良しとしない勢力があった。
草壁の異母弟、大津皇子一派である。
大津には草壁を倒すという野心は毛頭なかったはずだが、凡庸な草壁に比べて、大津の人望が厚く、大津を皇太子として担ぎ上げる勢力は持統天皇にとって無視できない危ない存在だった。
すると人麻呂の歌った『かぎろひ』の歌の昇る朝日に誰を例えたのか?沈む月は誰なのか?
非常に、興味深い推測がなりたつだろう。

しかし、ここは与謝蕪村の授業である。柿本人麻呂に深入りすることはできない。

「蕪村の春の句にはもう一つ、著名なものがテキストの次にあるものです」
私は、これも板書した。
「春の海 終日(ひねもす)のたりのたりかな」

「終日と書いて『ひねもす』と読みます。あとは意味、わかりますね。なんとなく」
学生たちは笑顔を浮かべて軽くうなづいた。
「私も、この句が好きで、こういうふうに一日中ごろごろしていたいと思います」
くすくすと笑い声が起きた。
「それから、こういうのもありました。『寝ごころや いづちともなく春は来ぬ』どうですか?孟浩然の漢詩『春眠暁を覚えず』を彷彿させますね。どうやら春は眠いものです。みなさんもそうじゃないですか」
白河夜船を決め込んでいる窓際の学生がカクンと前にのめっている。
また笑いが起きた。


こんな感じで、私の最初の授業は滞りなく終わることができた。
少人数のクラスなので、そのうち学生たちとも打ち解けて、学期の終わりには蕪村をたずねて野外授業も企てようかと考えている。

五月の連休前に、一通の手紙が私の手元に届いた。
差出人は、飯塚律子…飯塚幸生の細君からだった。
律子さんとは、飯塚が結婚したいとかで食事に誘われたときに紹介された。
京都で有名な劇団の団員さんで、パントマイムを勉強しているのだとか、当時は話していた。
その後も飯塚夫妻との付き合いは続いて、律子さんとはそれ以上の関係はなかった。
劇団のチケットを頂いて、彼女のパフォーマンスを何度か鑑賞したことはある。
その律子さんから、私への親書である。
私はただならぬ予感がした。
飯塚とは昨年来、会っておらず、私の連載の断りのメールにも「了解した」との返事が来た切りで、その後の音沙汰もなかった。

私は、封を切った。
真っ白な便せんには、か細い丸い文字がびっしりと並んでいた。
かいつまんで書くと、次のようだった。

夫が家を出たまま帰ってきません。
だれにこんなことを相談すればよいのか、わたくしにはにわかには思いつかず、不躾とは存じますが、戸田様にすがるしかないとペンをとりました。
これまでも仕事で家を空けることは何度かありましたが、行き先を告げずに、連絡もよこさない旅はありませんでした。
ほかに女の人でもできたのでしょうか?
私に子供ができないことを、夫は気にしていたようにも思います。
それが原因で溝ができていたとは考えたくはないですが、ありうることかもしれません。

などと、つらつら思いつくままに書いている。
かなり律子さんが参っている様子がうかがえた。
それにしてもあの飯塚が、律子さんの不妊のことで悩んでいたとは思いもしなかった。
結婚もしていない私が「何をかいわんや」であるが、そんな藁のような私にもすがりたいという切実な律子さんの思いも痛いほどわかる。
相思相愛だったのではなかったか?
お互いを認め合って一緒になった人もうらやむ夫婦だったはずだ。
私は、かつて、自分の恋愛小説を飯塚にこっぴどくけなされた件もあって、律子さんに同情的になっていた。
律子さんの推理通りに飯塚が他に女を作って逐電してしまったと考えられなくもない。いや、あいつならやりかねない…
私は、友を内心で罵っていた。
そして、哀れな律子さんを…私を頼ってきてくれている初めての女性からの手紙を胸に抱き、彼女のために何かできることはないかと、私は妙にざわついていた。