「では、アテナイ人の諸君よ。まず最初に私がせねばならんことは、私に対する訴えが、まったくの虚偽に起因するものであることを、訴えた者に弁駁(べんばく)することだ」
こうして、長きにわたるソクラテスの弁明が始まるのだった。

私は、車窓に流れる田園風景をながめるでもなく見つめていた。
ひざの上の「ソクラテスの弁明」を閉じると、すこし眠ることにした。

「君の書くものは文学なんかじゃない…」
飯塚幸生(ゆきお)の言葉が脳裏をめぐる。
「あなたに言われる筋合いはない」
そう反論する言葉が出かかっていたが、飲み込んだ。
幸生の言うことは、いちいちもっともだったからだ。
ということは、それなりに私は冷静さを失ってはいなかったのだろう…
編集者というものは作家に辛(から)いことを言うのが仕事である。
しかし、こうも否定されては、私の立つ瀬がなかった。
ここに、自己弁護に走ってしまう私がいる。

「まもなく高槻(たかつき)に到着します。この電車は高槻をでますと茨木(いばらき)まで停まりません」と車掌のアナウンスが浅い眠りを破った。

大阪大学の研究室に戻った私は、デスクトップパソコンの電源を入れ、秋の学会の論文作成の続きに打ち込むことにした。
もう、小説は書くまい…
とはいえ、飯塚には連載を約している。
雑誌「華頂文藝」は、私のデビューを飾った記念すべき出版社の文芸誌だった。
鴨川べりにある、ネクストビルの五階にオフィスを構えるまでになった、純文学の雑誌社としては珍しい出版社だった。
社長が京都大学で教鞭も取ったことのある長谷川神吉(かんき)という国文学者だった。
「吾妻鏡」の研究では第一人者とされている。
私の江戸の詩歌研究など、長谷川社長にすれば鼻くそみたいなものであるし、そんな研究家が恋愛小説を書いているなど噴飯ものだろう。
だいたい「華頂文藝」に下世話な恋愛小説など似合うはずがないのである。
それを承知で飯塚が私に依頼してきたのではなかったか?
飯塚と私は、この研究室で机を並べていた仲だった。
主任教授の日下部洋一先生の下で、与謝蕪村をやっていた博士課程時代のことだった。
大坂で活躍していた蕪村の古文書を探し、知られていない実像に迫るやりがいのある仕事だった。
日下部先生は蕪村研究では第一人者であり、俳人としてもテレビ番組で一時、有名になったこともあった。
私が高校生の頃だった。
蕪村研究のお手伝いをするにつれ、江戸文学、詩歌に興味がわき、私の研究者としての進路も決まったというわけだ。
そして江戸時代の遊郭での花柳界の文学に没頭するようになり、恋愛小説まがいの文章を書くようになった。
「とっちゃん(私のあだ名)の文章は、江戸の生き生きとした香りがするよ」と、当時の飯塚がほめてくれたのだった。
飯塚が博士課程を中退し、華頂文藝に入社したのはそのすぐ後だった。
彼には結婚する予定があり、定職に就く必要があったのだ。

そうこうしているうちに、日下部先生のかばん持ちとなり、秘書のような役回りで研究を続けることになって、博士後期課程も無事終えることができ、人にも「研究職」であると公言できるようになった。
本も連名ではあるが、二冊を世に出せた。
研究書なので一般に売れる本ではなかったが…しかし私がペンネーム「伊吹幸太」名義で「華頂文藝」に発表した「西鶴随想」は本にはならなかったが評判が良かったと聞く。
「伊吹幸太」が国文学者「戸田雄介」だとはだれも思うまい…と、小説家気取りでいい気になっていた。
そこに今度の連載物の企画が飯塚から持ち上がったのだった。
私は練りに練って、元禄時代を舞台に恋に落ちた駆け落ち男女の悲劇を書いて飯塚にもっていったところ、今日のざまだった。
やはり、私は本職の研究にいそしむべきだったのだ。
恥じ入る気持ちでいっぱいだった。
「伊吹幸太」が私であることが、せめて公にならないことを願った。

「おう、戸田君、帰ってたんか」
後ろで日下部教授のしわがれた声がした。
「あ、先生、今日はどうも出かけてしまいましてすみませんでした」
私は立ち上がって、無断で京都に出ていたことを詫びた。
「あ、ええんやで。君もいろいろあるんだろうから」
「飯塚君と会ってたんです」
「ほう…彼は元気にしてるかい?」「ええ」「今もあの出版社で?」「そうです」
しばらくあって、
「そうだ、来年から江戸俳諧をテーマに一コマの授業を担当してもらえんかね」
「わたしがですか?」
「きみもそろそろ講師から助教授に推薦出来たらと思ってね」
私は、飛び上がりたいくらいの気持ちだった。
「あ、ありがとうございます。やらせてください」
「そうかい。じゃ、来週の教授会で挙げてみよう」
しがない小説を書くより、研究に私の人生を捧げることのほうがずっと気持ちが安らぐ。
小説家への未練がないではなかったが、恋愛もしたことのない私が恋愛小説など、書けるはずがないのだった。
私は、飯塚に連載断りのメールを送ることにした。