バー「アングラ・ベース」は、たばこの煙でかすんでいた。
長官(マスター)はグラスを磨いている手を止めて、後ろのキャビネットにおさまった銀色のCDプレーヤーを操作する。
ほどなく「X-JAPAN」の『Tears』の静かな前奏が店の底から湧いてきた。

「やあ、ノベンバー、表の運河に止まっているのは、君のS6(スーパーマリン)かい?」
その男は、ネイビーブルーのジャケットにプラチナブロンドの長髪を束ねて背中に垂らしていた。
「あなたは、たしか…」
「ゴルフ…ジョージのゴルフさ」
この店ではコードネームをNATO式フォネティックコードで呼び合うのが習わしだった。
「ああカーチスの」
ゴルフは「カーチスR3C-2」のパイロットで、このあたりでは有名な男だった。あの「カーチス」で郵便配達をやっているとか…

「アングラ・ベース」には船や水上機でやってくる客も多い。
私も、ギルバート諸島の海賊島(海図上には発見者の「ジョセフ・フォン・コー島」とある)の灯台守としてオーストラリア海軍から派遣されているので、「足」が「S6」しかないのだ。

「S6」も「R3C-2」もシュナイダーカップ・レースで名を馳せた名機である。
彼らは軍用に開発されたものではない、人間のロマンが作り上げた飛行機だ。

「ゴルフさん、あなたは、ここにきて長いの?」
私は、ソルティドッグを口に運びながら微笑んで尋ねた。唇についた塩を舐める。
「長いと言えば長い…短いと言えば…もう、覚えちゃいない」
ジャケットの懐から出したマールボロの最後の一本を残して彼は咥え、長官の方を向く。
「ミントジュレップを」
さりげなく、私は自分の前の灰皿を彼の方に押しやった。
「ノベンバは海賊島にいるんだって?」「ええ」「なんでまた」「めぐりあわせよ」
将棋の序盤のような会話。
ミントの葉っぱがあざやかなカクテルがゴルフの前に差し出された。いっぱいの氷でグラスが汗をかいている。
「おれはマルーンの環礁に不時着したことがあった」唐突に彼は、しかしはっきりと話し出した。
「マルーンといえば、海賊島から五マイル北ね」「だいたいそうだ」「ガス欠?」「半分当たってる」
マールボロを根元まで燃やすと、彼は灰皿にそれを押し付けた。
半分当たってるってことは、どういうことなんだろう?私は酩酊した頭で考えていた。
「ガソリンタンクに水が入っていたんだよ」
「基地で入れたんでしょ」「それがさ、水上機母艦ってやつに片道分を入れてもらったんだ」
グラスを干し、口を袖で拭って、白い歯を見せた。
「水上機母艦?海軍の?」「だろ?エンデバーって名前だった」「聞いたことないわ」
私はそういう名前の艦を知らないし、水上機母艦などという前時代的な軍艦も知らなかった。
彼によると、海水の混じったガソリンを入れられ、満タンどころかガソリンは半分しか入っていなかったらしい。
水上機だから、どこでも「不時着」できるのだが、そのあとが問題だ。
このギルバート諸島は、島嶼部が散在していて、リーフなどは無数にあるが、人は全くいない。
無線がなければ干物になるのに半日もかからない。
ゴルフは、周到なパイロットだから「カーチス」に様々な仕掛けを備えていると話した。
つまりはその自慢話をしたかったわけだ。

私は早めに切り上げようと、「アングラ・ベース」を後にした。
ゴルフは明日が休暇だとかで、まだ飲むらしい。

新月だった。
私は運河に降りて行って、愛機「スーパーマリンS6B」のフロートに足をかけ、翼の上に飛び上がった。
風防のない運転席に体を滑り込ませると、少し酔いを醒ますために眠ることにした。
降るような銀河に、手が届くようだった。

未明に海賊島に帰れればいい…
私はラジオのスイッチを入れた。
軽快なボサノバが私を眠りに誘った。