私は、学生時代より親しくしている中山弥生(やよい)が産休に入ったので、いわゆる「産休先生」として、私立至誠館学園高等部の理科教員を仰せつかっている。

もともと私は、大学院を中途で辞めてぶらぶらしていて、たまたま高校化学教諭の免状を持っていたことから親友の弥生に乞われてここにやってきたのだった。
私は、そのころ担当助教授と不倫関係にあり、清算したところだった。
私が大学を去ることで、先方の奥様も許してくださったのだった。

新しい職場は、私立学校ということもあり、また、弥生がこの学校の副理事の一人と昨年、結婚したことから、私の都合も聞かずに、一方的にというか、とんとん拍子に弥生が話を進めてしまったのだった。
「どうせぶらぶらしてんでしょ?」と、いつものように決めつけて言うのが弥生のやりかただった。
それに弥生の旦那とも、知らない仲ではなかった。
弥生が私と同じ大学の研究室にいたころ、よくフィアンセの彼を連れてきていたし、私も何度か食事に誘われて、彼女たちとご一緒したものだった。

「え~と、今日は酸と塩基の話が終わったところなので、副読本の23ページにある中和滴定の実験をやろうと思います。その前に…」
私は、科学実験室に集まった2年1組の生徒たちの前で、お仕着せの大きめの白衣に身を包んで黒板の前に立っていた。
私は、うっかり忘れそうになっていた出席を取り、欠席者がいないかどうか改めて実験室を見回した。

六台の流しを備えたテーブルに38名の男女の生徒が整然と座っている。
私は、先生と呼ばれる立場には、まだなじめずにいた。

高校二年生と言えば、立派な大人であるし、私といくつも歳が違わないので、気押されするくらいだった。
この学園は、進学校でつとに有名であり、都心の有名私立大学や国公立大学に進むものが大半を占めていた。

「用意するものは、50mlビュレット、300ml三角フラスコかコニカルビーカー、20mlホールピペット、100mlと250mlメスフラスコ、時計皿、100mlビーカー、ポリスマン、安全ピペッター、試薬1級水酸化ナトリウム、試薬特級シュウ酸、電子天秤(最小秤量0.001g)、薬包紙、薬さじ、マグネティックスターラーと回転子、フェノールフタレイン溶液(1g→水100ml)、蒸留水の入った洗瓶(500ml)、ビュレットに液を移すためのガラス漏斗…こんなところですかね」
私は、各テーブルの上にあらかじめ用意しておいた器具類を、説明がてら読み上げた。
授業で使う副読本は、実験手引書の類(たぐい)であり、教科書には触れられていない化学実験の専門的な用語が並んでいて、初学者にはとっつきにくい内容になっていた。
おそらく大学で使う実験手引書を焼き直したものに相違ない。

「もちろんビュレットはビュレットスタンドに挟んで、垂直に立てますよ」
「それから、ビュレットの活栓は白色ワセリンでスムーズに回転するように調整しておくことね」
「そこにはマグネティックスターラーなんて書いてあるけれど、実験室には数がそろっていないので、なければフラスコを手で回して揺らしながら滴定していけばいいのよ」
私は、彼らを見回しながら、通路を歩いて説明する。

教壇に戻って、私は咳ばらいを一つして口を開いた。
「さてと、まず0.1規定の水酸化ナトリウム水溶液を作ってもらいます」
規定度(N、ノルマル)とモル濃度(mol/L)はこの場合、同じことだ。水酸化ナトリウムは当量(等価係数)が1だからである。
「水酸化ナトリウムの0.1mol/Lは4gを水で溶かして、水で1Lにすればいいのですが、それでは作りすぎですので、その4分の1を作りましょう。矢作(やはぎ)君、どうすればいいかな」
窓際で、ひときわ長身の矢作裕也と目が合ったので、私は指した。
「あ、はい。水酸化ナトリウムを1gを量り取って、250mlメスフラスコの中で蒸留水で250mlにすればいいのでは」
「その通り。よろしい。中和滴定では、水酸化ナトリウムの濃度をしっかり測定しておかねばなりませんね。水酸化ナトリウムは潮解性があって、空気中の水分を速やかに吸って重さが変化します。したがって、すばやく時計皿に電子天秤で量り取り、100mlビーカーに蒸留水で洗い入れます」
私は、大学ではキレート化学を専攻していた。
簡単に言えば、遷移元素などを、配位子が挟み込んで塩を作る反応だが、生体内では毒素の金属イオンを補足したり、さまざまな能動輸送に利用価値のある展開がおもしろく、私を夢中にさせた。
しかしそれも潰(つい)えた…自分のしでかした浅はかな行いで。
そういった経緯から、中和滴定などの定量分析は私の専門とするところだった。

生徒たちも順々に、作業に取り掛かっていった。
私は、テーブルを渡り歩きながら、細かい指導をする。
「ポリスマンで攪拌して良く水酸化ナトリウムを溶かしてね、そう。今度はこの水溶液を250mlメスフラスコに入れ…蒸留水で共洗いして、その洗い液もメスフラスコに入れるのよ。それからメスフラスコの標線まで洗瓶の蒸留水を足します。メスフラスコの栓をしてよく振り混ぜてね」
「横山せんせ」
「はい?」
「このガラス棒は、なんでポリスマンって言うんですか?」
佐々木加奈が、くるくるとよく回る愛らしい目で質問をしてきた。
「それはね、警棒に似ているからよ。アメリカの警官、ポリスマンね、彼らが腰にぶら下げている警棒はそのようにゴムがかぶせてあるの」
化学実験で使うかきまぜ用のガラス棒は、ガラス器具に優しいように黒いゴム管を先端にかぶせているので警棒に見立ててポリスマンと言い慣わしているのである。
「ゴムがかぶせてあるのよ」と藤井信(まこと)が私の声色を真似て言った。
「肉棒に」と、永井芳夫がにやにやして言う。
「ばか…」
佐々木加奈が、口をとがらせて、男二人を睨んだ。
この年頃の男子は「耳年増」で下ネタが大好きだ。
女子や私の反応を見て面白がっているに違いない。
「永井君の危ない棒で女の子を傷つけないように、ゴムをちゃんとするのよ」
「うへっ、横山センセ、言うね。試してみる?」
「おあいにくさま。あたし鍛えてるから、あんたの棒じゃ傷つきませんよ」
わははは…

「あなたたち、馬鹿言ってないで、ちゃんと実験しなさいよ。レポートを提出してもらいますからね」
私は、教師らしく腰に手を当てて、諫(いさ)めた。
ほんと、思春期の男の子はしようがない。けど、彼らは勉強はよくできるのだった。

教壇に戻り、私はひとつ、彼らに質問を投げた。
「じゃあ、みなさん。これでも水酸化ナトリウムの濃度は、だいたい0.1mol/Lであって、潮解性のために正確ではないのですよ。どうするか?じゃ、藤井君」
「えへっ、わかんないっす」
「あたしの口真似は、お上手なのにね。ま、いいわ」
頭を掻いて、藤井信は着席した。

「もっと安定な酸性物質を正確に測り取って、基準液を作り、これでこの水酸化ナトリウム溶液を中和滴定して濃度標定するという面倒なことをします。その次のページに書いてある作業はそのことです」
みながページをめくる音が実験室に響く。
「そこにありますように、安定な酸性物質には「シュウ酸二水和物」という特級試薬を使います。これはカルボキシル基が二つでできた結晶で極めて安定です」
私は、黒板にシュウ酸の分子式を白墨で書いた。
「この「二水和物」とはなんでしょうか?わかりますか?」
だれも挙手はしない。高校生には難しいことかもしれなかった。

「シュウ酸の結晶には結晶水といって、水分子を二つ抱いたまま結晶化します。必ず二つ持っていますので、シュウ酸二水和物の分子量も二つの水分子を含んだものになります」
私は続けて説明したが、わかってもらえなかったかもしれない。

「ですから、シュウ酸二水和物の分子量は126となります。大事なことは、シュウ酸二水和物の分子量には、シュウ酸分子に水二分子を足しておかねばならないということだけです」

シュウ酸の標準液(0.1N)を作らせるが、これも1リットルもいらないので、100mlか250mlのメスフラスコで調製させる。
するとシュウ酸二水和物は十分の一ですむのだった。
「せんせ、シュウ酸二水和物の1.26gですが…シュウ酸は二塩基酸(カルボキシル基が二つある)ので、水酸化ナトリウムを完全に中和するにはその半分で良いんですよね」
学級委員の植松みずきが一番前の席から発言する。
この子は、よくできる子だった。
おさげ髪で、淡いピンクのつるの眼鏡をしている。
そして、なによりも、私でも注視してしまうくらいの大きなバストをしていた。
「よく気が付きましたね。そこにも書いてあるシュウ酸のモル数は、半分になっているでしょう」
私は、黒板に板書しながら、
「ですから、シュウ酸二水和物の0.1Nは0.63g(0.05mol)をメスフラスコで1Lにするのですが、そんなにいりませんから、250mlメスフラで作るなら、これも4分の1でよいので、シュウ酸二水和物を0.158gを正確に測り取って250mlメスフラスコで蒸留水で250mlとします」
「せんせ、シュウ酸は潮解しないんですか?」植松さんが、すかさず質問してきた。
「シュウ酸二水和物は吸湿性もまったくないわけではないですが、普通に測っても重さは変わりませんので、電子天秤で薬包紙の上に、手際よく量ってください」
続けて、
「こぼさないように、メスフラスコにシュウ酸を移し、蒸留水で口に着いたシュウ酸を洗い入れ、良く振って溶かしながら、標線まで蒸留水を入れて完成です」
と、付け加えた。
生徒たちは、わいわい言いながら、薬品を取り出したり、器具を用意し始める。
私も、彼らを手伝いながら、見て回る。

ひとしきり時間を与えて、試薬の調整が終わったところを見計らって、教壇の上から私は口を開いた。
「それでは、ファクターの話をします」
みんなは、手を止めて、きょとんとしている。
私は、かまわず続けた。
「いくら正確に天秤で量ったからといって、シュウ酸二水和物が0.158g丁度に量れましたか?」
多くの生徒はかぶりを振った。
「0.159gとか0.163gとか行き過ぎたりしたか、慎重になりすぎて0.151gだったとか。それでいいんですよ。きっちりにならなくても」

「シュウ酸二水和物の理論値は0.158gでした。でも私がさっき量ったら0.163gになってしまい、もたもたしてられないのでこのまま規定液を作ることにしました。こういう場合はね、0.163gを理論値の0.159gで割ってやってください。すると1.025という単位のない数字が出ます。これをシュウ酸二水和物のファクターとか、力価(りきか)と言います」
私は板書しながら、カンカンと白墨の音をたてて説明した。
「つまりですね、「この濃度は理論値より1.025倍大きいですよ」と規定液に表示して、以後、このシュウ酸規定水溶液を使う際にはファクターを滴定消費量に掛けるようにします」

「それからね、容量器具のうち、ビュレットとホールピペットはよく洗って乾燥したものをその都度使いますが、数も限られているでしょうから、「共洗い」をして、使う濃度の溶液で内面を数回洗って使います。植松さんはこの意味がわかりますか?」
「はい、濃度の決まった溶液を入れる器具は水で濡れていると濃度が薄まるから、乾かすか、共洗いをするのです」
「そうです。それ以外の器具は神経質に共洗いをする必要はありませんね」
「三角フラスコが濡れてんですけど、いいんですか?」
今度は、佐々木加奈が訊いてきた。
「ホールピペットで量った溶液はその時点でちゃんと詳しく量れているので、その後、濡れた三角フラスコに移しても何ら問題はないのですよ。加奈ちゃん」

「では、まず0.1N水酸化ナトリウム溶液の濃度標定をしてください」
私は、近くのテーブルのビュレットを使って、演示してやった。
「0.1N水酸化ナトリウム溶液をスタンドに立てたビュレットに、このように漏斗をつかって目盛のある部分より少しオーバー気味に入れます。ポリスマンに伝わらせて、液をいれるんですよ。背が高い人に手伝ってもらいましょう」
「シュウ酸溶液のほうをビュレットに入れたらだめですか?」
スポーツ刈りの石川啓太が訊いてきたので、
「いい質問です。どっちでもよさそうなものですが、どうして水酸化ナトリウム溶液のほうをビュレットに入れるのかと申しますと、水酸化ナトリウム溶液は空気中の炭酸ガス(二酸化炭素)を吸収してアルカリ性が中和される性質があり、あまり口の広い容器に入れて長い時間さらすのはよくないとされているからです」
「へえ」

「入れ終わったら、漏斗を取り去り、ビュレット内の気泡を軽く叩いて浮かせ、静かに泡が消えるのを待ちます。下に空のビーカーなどを受けて、活栓を少し開いて、液を排出し0mlの目盛に液面の凹部を合わせます。もし超えてもそこからスタートすればよろしい」
「うまい、せんせ」
「おほめにあずかって光栄ですわ」
私はおどけてみせた。

「じゃあ、滴定を始めましょう。200mlの三角フラスコかコニカルビーカーを用意し、20mlホールピペットで安全ピペッターを使って、0.1Nシュウ酸水溶液を吸い上げて、その液を三角フラスコ内に排出します。仕損じたら、もういちど蒸留水でフラスコを洗ってからやり直してください」

「ホールピペットは完全に空になるまで排液すること。ほら、こうして、安全ピペッターを閉じたまま、ホールピペットの膨らんだ部分を握って、体温で最後の一滴を吹き出させるの」
「おお。すげぇ」
私の小技(こわざ)に彼らは目を丸くしている。
化学実験は楽しいものだ。

この三角フラスコに1%フェノールフタレイン溶液を1,2滴たらして、振ってよく混ぜ、滴定作業に入るのだ。
三角フラスコの口にビュレットの先を差し込んで、ゆっくり活栓を開きシュウ酸水溶液を落としていく。
まず私がやって見せる。
みんなが食い入るように私の手先を見ている。
熟練者は片手で活栓の開閉を行い、もう一方の手はフラスコを振り混ぜるだけだ。
「せんせ、上手ですね」
「まぁね。こんなことばかりやってたから」
「お料理もできるんでしょ?」
「それとこれは別。でも洗い物は慣れてるかもよ」
「ははは」

液が落ちた場所はフェノールフタレインで赤紫に変色するがすぐに消える。
しかしだんだん色が濃くなりはじめると、滴定のスピードを落とし、一滴ずつ入れて混ぜ、色の付き具合を判断し、もはや色が消えなくなったときを終点とする。
「このくらいが終点ね。このときのビュレットの読みを最小目盛(0.1ml)の十分の一まで目分量で読むのよ。わかった?じゃ、やってみましょう。最低、三回は測ってね」

「ビュレットの目盛の途中からでも始めていいので、どんどん滴定していきましょう」

山下理央さんのテーブルは、なかなか手際が良かった。
松本豪(たけし)、水野郁夫(いくお)の寡黙な二人が分担しながらやっている。
「たけし君、20.01、19.96、20.05(ml)と三点の平均、おねがい」
「うん」
水野君が終わった器具を流しに片付けていく。
「山下さん、平均は20.01(ml)になった」と松本君が電卓を見せる。
私は、副読本のページを指して、
「中和の式よ。先週やったよね」
「はい」と松本君。
nVf=n'V'f'…①
n,n'は濃度(mol/L)、V,V'は容量つまりビュレットやホールピペットで量った量(ml)、f,f'はファクターである。
左辺をシュウ酸側、右辺を水酸化ナトリウム溶液側として解けばいい。

以下、松本豪のノートを見る。

0.05(mol/L)×2×20(ml)×1.025=n'×20.01(ml)×f'…②

ここで左辺の「2」はシュウ酸が二塩基酸なのでモル濃度を二倍にして0.1N(規定)としなければならないからだ。

n'f'=0.09995N(規定)
0.1Nが理論値だから、この水酸化ナトリウム溶液のファクターは0.09995である。
以下略

規定度(N)を最近は使わなくなったそうで、その場合は「モル濃度(mol/L)」あるいは「M」と表すのが一般的である。

さて、次は、この水酸化ナトリウム水溶液を使って、濃度不明の塩酸水溶液の濃度を求めさせるので、私は塩酸水溶液の準備を始めるために教壇に戻った。

日が射してきて、にわかに実験室が明るくなった。

弥生の出産予定日は今月十日だと言っていた。
もう明後日である。
「大丈夫だろうか?」
私は友の体を案じ、また、生まれくる命に嬉しさがこみあげてきた。
私もいつか…


(おしまい)