バーの本棚から私は二冊の本を選び出して、カウンターに置いた。
yomashine-midnight plus one
「これこれ、読みたかったのよ」
長官(マスター)がジャックダニエルのスクリューを開け、私のグラスに注(つ)いでくれながら、
「ノーベンバー(私のコードネーム)は、ハードボイルドが好きなのかい?」と、訊いてきた。
「内藤陳のオススメで好きになっちゃった」
「『深夜プラス1』はこれからかい?」
「これ読まなきゃモグリだもんね」
「だね」
私は、このバー「アングラ・ベース」の常連になって浅い。
長官は無類の蔵書家で、読書家であり、生前、奥様が居酒屋で生計を立てていた傍(かたわ)らで、古本屋を営んでいた時期があった。
奥様が癌になって、献身的に世話をした長官だったけれど、それも長くは続かなかった。
古本屋では飽き足らず、好きな本やモノをならべた酒場を「秘密基地」として、長官は店を引き継いだのだった。

古本屋にバーカウンターが越してきたような店で、数人が入ると満杯である。
新宿ゴールデン街には、今は亡き内藤陳氏がマスターをしていた「深夜プラス1」という酒場があるのを、知っている人も多かろう。
長官も内藤陳氏のファンであり、AF(アドベンチャーフィクション:冒険小説)のファンでもあったから、真似たのだろうことは想像に難くない。

五十も半ばにさしかかった私は、ハズキルーペなくしては本を読めなくなってしまった。
グラス片手に、おもむろにセカンドバッグからハズキルーペを取りだす。
間接照明の薄暗い「隠れ家」で私は本に没頭する。
読んでいる間に、お客が溜まってきた。
タバコの紫煙で空気の層ができ、長官が気を利かして換気扇を回し始める。
私は一向にかまわないのだけれど…

ボズ・スキャッグスの「You can have me anytaime(トワイライトハイウェイ)」が流れていた。

二十四時間表示の海事時計がやや傾いて柱にかかっている。
もうすぐ日付が変わる。

「ロバート・パーカー」
「ジャック・ヒギンズ」
酔客の口から漏れ出る作家の名前が、私の耳に届く。
『読まずに死ねるか!』をめくりながらの私には、新鮮だった。
男は夢を見る動物らしい。
女の見る夢とはかなり違うらしい。

「長官、ジャックダニエルをロックでおかわり」
「はいよ」
私はもう、あそこには戻りたくなかった…