私のコードネームは「ノーベンバー・ワン」。
この酒場「アングラ・ベース」の常連には、長官(マスター)がコードネームをつけて呼び合うのだ。
大人の「ごっこ」を楽しむ空間。

カウンターだけの狭い空間は「地下組織」の雰囲気を醸し出している。
しかしよく見れば、放送局の「金魚鉢」のようでもあった。
「ON AIR」のランプ表示が天井付近に点灯しているし、長官自慢の洋楽ナンバーのレコードの棚と洋酒が雑然と並んだ吊り棚、どっかの工場からもらってきたという圧力計やら温度計、赤いバルブハンドルなど「潜水艦」のような調度品が壁の隙間を埋めている。
トイレを使うと「手術中」のランプが点灯するのがご愛敬だった。
こんなもの、どこから手に入れるのだろうか?

ダイヤトーンのオーディオセット、ソニーのカセットデッキとオープンリール、BOSEの吊りスピーカー、電子レンジ、ポップアップトースター、YAESUやKENWOODのアマチュア無線機、電鍵、世界地図、アンティークな地球儀、笠が頭が当たりそうなくらいに下げた電球の照明…そして本の山。
酒場なのか、古本屋なのか一見してわからない。
この店には、実は、カウンターのほかにテーブル席がひとつだけあるのだが、そこは本で埋まっていたのだった。

かかっている音楽は耳鳴りのようでもあり、長官のお気に入りのジャズナンバーかシャンソンだったりする。
「長官、その後ろのコルクボードに貼ってあるのはベリ・カードね」
そこにはラジオ・オーストラリアとHCJB、国内の中波ラジオ局のカードが数枚貼ってあった。
「ノーベンバー、よくご存じで。あんたもBCLやってたの?」
「中学生の頃にね」
「そうか、あんたの年頃がピークだったかなぁ」
「長官と、あたしってそんなに、歳変わんないでしょ」
「そうかね」
私は、バーボンのロックを舐めながら、ここの雰囲気を楽しんでいた。
ガラス戸が開いて、男が入ってきた。
「やあ、ブラボー・ワン」
長官が応えた。

男は、私の隣に腰かけて、
「ノーベンバーさん、だね」と訊いてきた。
私も会釈した。
「ブラボー・ワン」氏には一度だけ会ったことがあった。
もちろん、この店で。
「長官、カティサークのハイボールを」
「あいよ」
「今日の任務はどうだった?」
ここでは仕事のことを「任務」と呼んでいた。
「現場は、砂ぼこりで大変さ」
「黄砂かい」
「それもある」
春の嵐で、今年もひどい黄砂が降っていた。
長官が「ブラボー・ワン」の前に背の高いグラスを置いた。
ソーダの気泡が沈滞した空間の中で、ひときわ、いきいきと立ち上がっていた。
「ノーベンバーさんは、今来たとこ?」
一口、ハイボールを含むと、ブラボーは私に話しかけてきた。
「ええ、つい三十分ほど前にね」
「こんな格好じゃ、暑いな」
彼は、冬物のコートのようなものを羽織っていた。
そう言いながら、脱いで、本の山の上にポイと投げた。
「この時間なら、もうすぐしたら、ヤンキーとフォックストロットがやってくるだろう」
どちらも、ここの常連で、私も面識があった。

ここは、近くに錫の鉱山があって、人夫たちも多かったが、この店にはあまりそういう男たちは来ない。
ブラボーはどうやら鉱山技師らしく、大学でそういう方面の学問を修めたようなことを前に会った時に話していたと記憶している。
長官ももとは鉱山関係の仕事をしていて、落盤事故で左脚を傷めてしまい、奥さんがやっていた酒場を継いでいるのだった。
長官は酒場をやっていた奥さんにぞっこんで、「入り婿」状態で店に入り込んで、今に至っている。
奥さんはガンを患っていたのに、脳卒中で死んでしまった。
「人の死なんてのは、わからんもんだ」
かつて長官はそう言って、目を細めつつ煙草の煙を吐いたのだった。

本は文庫本がほとんどだったが、中にはハードカバーのちゃんとしたものもあった。
古今東西の名作と称されるものは一通りあるようだった。
また軍人の書いたものや、政治家のもの、医学や薬学、人類学にいたるまで多岐にわたっていた。
だからここに来た者は「古本屋」と見まがうのだった。
「長官はここの本をみんな読んだんですか?」
「そりゃそうさ」
「何冊ぐらいあるんです?」
「わからんよ」
「どこにどんな本があるのか、わかんないでしょ」
「そんなことはないさ。試しに言ってごらん、どこにあるか言い当ててあげよう」
「じゃあ、モンテ・クリスト伯は」
「ここだよ」
カウンターの中のグラスがたくさんならんでいる横にその「全五巻」があった。
「「吾輩は猫である」なんてあります?」
「君の後ろの棚の右から三冊目かな。そこは漱石のものがそろえてある」
振り返ると目の高さにそれはあった。
「仰臥漫録」や「浮雲」「破戒」「おめでたき人」「のらや」などが目に入る。
大佛次郎(おさらぎじろう)なんてのもあった。
「町の図書館より本がありますね」
「そりゃ言い過ぎだ。図書館の方が蔵書は多いぜ」
長官は、そう言って笑いながらグラスを磨いている。

私はウィスキーが氷が解けて薄まってしまうほど、本に夢中になっていることもあった。
長官が、「入れ替えようか?」と気遣ってくれることさえあった。

私は、灯台では一人ぼっちだったが、ここに来れば、人に会えた。

ひげ面の「ヤンキー・スリー」氏が、大きな体をゆすって店に入ってきた。
「よぉ、ノーベンバーにブラボー・スリー」
「こんばんは」

私の心の旅は、距離も時間も飛び越えられるのだった。