市内の楢橋美術館は、人もまばらだった。
この町は観光の街ではないので、よそから来る人は少ないのである。
モダンな門構えと、日本建築を融合させたような三階建ての美術館で、イオニア式のエンタシスを持つ石柱が来場者を迎えている。
切符売り場は内部にあり、常設展と特別展が一対になった切符を中島さんが買ってくれた。
これではどっちがデートに誘ったのかわからないが、年上の彼女に甘えることにした。
天井の高いホールには、喫茶室と売店が並び、大理石のつややかな通路が第一展示室にぼくたちを誘導した。
「岩崎さんは、ここは初めて?」「ええ」
ぼくは、美術にはそれなりの興味を抱いていたが、引きこもり症が美術館に足を向けさせなかった。
「ここはね、日本のキリスト教の宗教画をたくさん展示しているのよ」「そうなんですか」
立花諸澄(もろずみ)や祖父江晃順(そふえこうじゅん)という画家の名前が中島さんの口から飛び出す。いずれの画家もぼくは知らなかった。
「これは祖父江のイコンです」
かなり大きな油彩の作品だった。
西洋の画家が描いた同種の絵より、どこか日本的だった。
マリアと、彼女が抱く赤子のイエスの像である。
明治期に渡欧した祖父江が、最初に描いたとされる作品だと隅の説明文にあった。
「これは諸澄のスターバト・マーテル」
「スターバト・マーテル?」
「悲しみの聖母とでも言いますかね。イエスが磔刑(たくけい)に処され、その死を悼んで悲しみに暮れる姿を絵にしたものよ」
十字架の元で、さめざめと涙を流す聖母マリアが描かれている。
涙は地面に染みを作っている。
諸澄は同じ主題でもう一枚、絵を残している。それも展示されていた。

楢橋純一郎はこの染谷市で明治期にガラス工場を興し、蓄財してその潤沢な資金で日本や西洋の絵画を買い集めたと、本館の銘板にあった。
まだまだ売れていないが、将来のある日本人画家の絵を高く買ってやったらしい。
祖父江晃順が渡航できたのも楢橋翁の力添えあってのことだったという。

リヒテルの『魔女』、オーカーの『暮色』、田所与(たどころあたえ)の『舞子』などを鑑賞し、二階の特別展に向かった。
「どう?美術館は」
「いいものですね。中島さんは絵がお好きなんですね」
「学生の頃、美術部だったのよ。これでも」
「へぇ、どうりで」
県立高校では美術部に所属していたという。油彩で人物をよく描いたと話してくれた。
「卒業してね、ほら、ヘンゼル絵の具ってあるでしょう?あそこに就職したの」
「ヘンゼル絵の具」はこの染谷に本社がある、画材の中堅メーカーで、小学生なら必ずあそこの絵の具を使ったことがあるはずだった。
「好きな方面に進めたわけだ」「まぁね」
中島さんの横顔が素敵に見えた。五十代には五十代の美しさがあるものだ。
「この人、いいなぁ」と正直、ぼくは思った。

特別展は、「二十世紀の抽象画とポストモダン」というよくわからないテーマの展示だった。
人はまったくいない。薄暗い中に、ぼくたちだけが侵入者だった。
間接照明で浮き上がった作品はどれも、上下左右のはっきりしないものばかりだった。
画家の名前もまったく知らない者だった。
ぼくは、薄暗いのをいいことに、中島さんの手を取った。
中島さんは少しビクッとしたが、応じてくれた。
その手は暖かかった。
ぼくは大胆になって、腕を組んでみた。
中島さんは、寄り添ってくれた。そして首をぼくの肩に預けるようにしたのだ。そして…
「どうしたの?」中島さんが尋ねる。
「ううん」ぼくはあいまいな返事をした。
中島さんは、薄く化粧をしているのか、ほのかな脂粉の香りが漂った。
「遊びたいの?きみとはふたまわり近くも、あたし…年上なのよ」
「遊びたいんじゃない…本気で」
「信じられないわ」
そういうと中島さんは腕を振りほどいて先を歩いた。
ぼくは追いかけて彼女の肩をつかむ。
「しょうがない人ね。人が見てるわよ」
確かに、もう一組の男女が先に絵を鑑賞している。

ぼくたちは、残りの絵画の鑑賞もそこそこに美術館を出た。
敷地内は玉砂利を敷いた庭になっていて、やはりほかには客はいなかった。
「怒ってるの?」
黙っている中島さんに、たまらずぼくは声をかけた。
「怒ってなんかいないわ。でもね、私たちの教団では性的な快楽を求めてはいけないことになっているの」
「そんな…だって中島さんは信者さんと不倫してたじゃないか」
ぼくは、あんまりなのでまくし立てた。
「そ、それは…」
「その人と、何もなかったって言うわけ」ぼくは続ける。
「わかったわ。岩崎さん」あきらめたような顔で、低く中島さんは答えた。

中島さんたちの教団は、厳格なカトリックに近いキリスト教信者の集まりだそうだ。
だから、子孫を残すために性交はするが、決して快楽を求めて性欲のおもむくまま行為におぼれてはいけないのだというのだ。
だから、だれとでも性交するなんていうことはもっとも恥ずべきことで、汚らわしいことだそうだ。
「万死に値するのよ」と中島さんはぼくをみつめて言った。
ぼくは、あきらめざるを得なかった。
「手をつなぐのもだめなんだね」「夫婦ならいいのよ」「じゃあ、夫婦になろうよ」
ぼくは食い下がった。なんでそんなことを言ったのだろう?
「岩崎さん、あなた本気でそんなことを言っているの?」
美術館を出たところで、中島さんが立ち止まり、ぼくを見た。
「そ、そうだよ」「うそ…」
嘘ではなかったが、ぼくには覚悟がなかったことを見透かされていた。
中島清美さんを妻にするということが、自覚されていなかった。
そう、ただ中島さんを「抱いてみたい」と思っていただけなのだ。
ぼくは恥じ入った。
「中島さん。清美さん、ごめんなさい。ぼく…ただ、中島さんが優しいから甘えたかっただけなのかもしれない。ほんと、ごめんなさい」
すると、中島さんがぼくの肩に手を回して、「行こうよ」と押してくれた。
「岩崎君は、いつも一人で寂しかったんだよね」
「うん」
「あたしたちの仲間になったら、そんな気持ちは吹き飛ぶはずよ」
「そうかもしれないね」
ぼくは、とうとう彼らの軍門に下ってしまった…
「信者になってくれるのなら、私、あなたに抱かれてもいいわ」
「え?」
「別に交換条件というわけじゃないの。私の気持ちとして、同じ信仰の人となら体を許して愛されたいと思うから」
今度ははっきりと中島さんが言った。
「私、捨てられたくないの。愛され続けたいの」
中島さんが涙声で、ぼくを見て言うのだった。
「そうしてくれる?岩崎さん」
中島さんの涙をたたえた目が美しかった。こんな目をされたらぼくは従うしかなかった。
「きよみ…」
ぼくは人差し指で彼女のほほを伝う涙をぬぐってあげた。
その先には、おあつらえ向きにラブホテルがあった。
美術館の周辺は染谷の歓楽街だったのだ。
(つづく)