千葉県八街(やちまた)市で飲酒運転による痛ましい交通事故が起きた。
集団下校の小学生の列に、飲酒運転のトラックが突っ込んで、児童二人を死なせ、一人を意識不明の重体にし、二人を重傷者にしてしまったのだった。
勤務中に飲酒して、会社のトラックを運転するという考えられない行為をしでかしたのだった。
ことの詳細は今後の捜査にゆだねるとして、どうして飲酒運転がなくならないのだろうか?
もちろん、厳罰に処されることになってから飲酒運転は大きく減ったことは事実である。

人が飲酒するには訳があるのだろう。
昨今のご時世では「楽しい酒」ではなく、「憂さ晴らし」の酒になっていることも想像に難くない。
新コロのせいで、酒や薬物に手を出す人も多いようだ。
やめてくれとお願いしても路上飲みは後を絶たない。
飲食店で酒の提供をすることが、今ほど難しい時代もない。
ともすれば「禁酒法時代」のように酒の提供をすると悪者扱いだ。

酒とたばこは「無くてもいい」と、飲まない人からは良く言われる。
たばこは、もはや社会的に抹殺されつつある。
ならば、売らなければいいのだが、禁止はされない。ただ公的な場所で吸うことができなくされている。
じゃあ、酒もそうすればいいではないか?と新コロになって言う人もいる。
酒など「百害あって一利なし」ではないかと、飲まない人は正義を語る。
たばこと違って、酒類を扱う業態が大手から弱小まで多岐にわたり、もし禁じてしまうと、経済的に大きく痛手を被る人々が多くなるということだ。
たばこは日本たばこ産業一社だけの問題で、もともと専売制だったので、規制を厳しくしても犠牲が少ないからである。
たばこ農家も補助金をもらって転作していって、文句は出ないようになっているらしい。

酒はそうはいかない。
アサヒやキリン、サントリーなど大手のビール、洋酒メーカーを敵に回すことを政治がおこなえるはずがなく、多数の飲食店までも敵に回すような、あるいは路頭に迷わすような政策を強行できるはずがなかった。
「酒は適度なら百薬の長」などと根拠のない言葉で、人々を飲酒に誘い、酩酊者が暴れ、反社会行為をおこなう土壌を作ってしまっている。
アルコールは、人体には有害で、特に日本人には代謝能力が遺伝的に乏しいために摂取しないほうがいいのである。
かくいう私は、のん兵衛だから、口幅ったいのだが、日本からアルコールがなくなってもいいのではないか?もはや、酒は社会的に不要な飲料ではないかとまで思うのだ。

それこそ、たばこのように家で隠れて飲むものにしてもらえないか?
人と飲んで騒ぐようになるのなら、新コロ時代には「飲酒」は忌み嫌われるだろう。
一人静かに飲んで、寝てしまうのなら許されてもいい。
たばこのように、だんだん、潮が引くように無くなっていけば、清く、美しい社会ができそうになると思う。
酒を飲む人は醜い。目が座って、何を考えているのかわからない。
まじめな人でもヤバくなる。
「少しだけ」と言いながら、過ごしてしまう。自制が効かなくなるのが酒の魔力だ。

理性を飛ばす酒や薬物は、やはり社会から無くなってしかるべきなのだと、八街の事故を見て思った。

そう言いながら、私は、夜、密かにサントリーオールドを飲む。
これが「最後だ」と言い訳しつつ…