口幅ったいことを書くようで、気が引けるんだけど、投稿サイト「note」や「カクヨム」を渉猟していると、なんとラノベの投稿の多いことか…

それが悪いとは思わない、読む人がいるわけだから。
でも私が読んで、率直に感想を述べると、何作か読んでみて心に残ったかというと、まったく残らなかった。
それも数作読んだだけで、記憶がごっちゃになり、作家の特徴をまったく分類できなかったからだ。
文体はみな似たようで、設定もゲームのような「セカイ系」か「学園系」で、美少女が必ず活躍し、「ツンデレ」、「ロリ」、「姉系」と性格が画一化されている。
男の子は概して、リアル世界ではパッとしないというか自分に自信のない「童貞」であり、お決まりの「異世界に転生」して勇者として目覚めるのである。
「魔王」的な存在を、ひ弱な勇者が懸命に、女の子と協力し、恋愛してやっつけるのだ。

いわゆる「セカイ系」とは、「エヴァンゲリオン」という世界観のロボットアニメに端を発する、男の子と女の子が世界の終末に瀕して、彼らだけで世界を救わざるを得ないシチュエーションに身を置くというものだろうか?そこに至るエピソードは大体の設定はあるのだろうが、世界には必須の、庶民の暮らしや文化、経済、政治などのややこしい設定はまったく閑却された「セカイ」なのだった。

「機動戦士ガンダム」や「王立宇宙軍 オネアミスの翼」や「風立ちぬ」なら、そういう設定は観る者が納得するくらいに設定され、現実を見るような気にさせものだだ。
闘う意味、なぜ戦っているのか?個人ではどうしようもない運命のいたずらとかを緻密に設定してこそリアリズムがあるはずなのだが。

少し昔の商業アニメでもそこは作家が苦心していたはずである。
「未来少年コナン」がそうだったし、「伝説の巨人イデオン」もそうだった。
「エヴァ」はしかし、良くできていたので、「セカイ系」といっしょくたにはできない。
「エヴァ」を観た人が影響されて、安易な自分好みの「セカイ」を設定し、勝手なラノベを作って「セカイ系」と言われているに過ぎない。

物語を編むことは、自分の知識の歴史を積み上げることなのだ。
ファンタジーの巨匠トルーキンの世界観はどうだ?まねできるだろうか?
「聖書」や「北欧神話」などの文化や思想を反映しているからこそ、時代の洗礼を受けて今に残っているのである。
今のラノベやゲームの世界観はいわば、そういった先人の世界のパクリであろう。
「それがサブカルチャーなんだ」と開き直られたらそれまでだが。

「軽く読める」から「軽く書く」が「ラノベ」ならそれは、出がらしの番茶のようなもので何も残らないだろう。

使われる語彙が少なく、セカイ系の「楽屋落ち」的言語とでも言うべき「造語」だけが躍っている。

ラノベは書き手と読み手のマスターベーションに過ぎないのではないだろうかとまで思える。

読書が「マスターベーション」に陥ってしまっては、何も産み出さない。
時間を消費しているだけなのだ。
それはまったくゲームに没頭している人々と同じである。

読書は、いわば「闘い」である。書き手と読み手の一騎討だ。
書き手が「わかるか?」と読み手に問い、読み手は「読み解く」のだ。
そのやりとりを、すでに死んでしまった過去の書き手と、現代の読み手が丁々発止でやり合うのだ。

昨日、NHKで「俳句甲子園」の準決勝、決勝を拝見した。
優勝した開成高校の顧問は、一つの兼題で100句は作らないと良いものはできないと言っていた。
俳句でさえそうなのだ。命を削って句をひねり出す覚悟が作家にもほしい。

だからラノベを私は反面教師としている。