優生思想はダーウィニズムから「進化」してナチスに政治利用されるようになった。
生産性はマルクスの「資本論」から議論され始めた。

そして、こういう思想は産業革命と無縁ではない。
生物学には「生物は子孫を残すことを目的として存在している」という大前提がある。
これを経済でいう効率や生産性に直結してしまうと「優生思想」になるのだと、私は考えている。

生物の進化は決して効率を求めているようには思えない。
迂遠な経路をたどって今に至っていて、試行錯誤風のところが多分にある。
また、目の前の生物が最高の出来かどうかも主観の入る判定では、とうてい深い洞察には至らない。
まだまだ進化の余地を残して我々は存在している。
最近、残念な動物などと、動物の姿かたちの「残念さ」を興味本位で書いている書物がある。
そういう見方こそ、障がい者を排除し、優生的な淘汰を崇拝することになりはしないか?

人類は、生殖の制御も、障がいによる不自由も、知恵で解決してきたかに見えた。
しかしその知恵には「身勝手」や「排除」を伴っていたのではなかったか?

障がい者は、確かに、手助けを要し、それゆえ「生産性」を邪魔するとされる。
生産性は経済と親密であり、経済発展は国家経営の目的だからだ。
一方で、先天性の障がい者は生殖の結果、一定の割合で存在し、また後天的に事故や災害でも発生する。
これを生産性向上の一言で切り捨てることはできないはずだ。
なぜなら、すべての人は障がいとは無縁でないからだ。
運よく障がいとは無縁に過ごす人がいるかもしれないけれど、明日はわからない。
想像力を働かせれば、ナチスのように障がいを切って捨てることはできないはずなのだ。
人間社会は、弱者とともに発展していくことを目的化せねばならない。
互いに必要な命を守り合ってこそ、健全な社会と言えるのではなかろうか?

旧優生保護法で強制的に不妊手術を施された人がたくさんいる。
医師は法に従い粛々とおこなっただけで、非難される筋合いはないと胸を張る。
一部の医師は、後悔があったともいう。
ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントは「ホロコーストを法に従いおこなった」という輩を「悪の凡庸」と糾弾した。
今でも、「いつまで古いことをほじくり返すのだ?」と元関係者が気色ばむそうだ。
しかし待ってほしい。
現に、過去に知らない間に手術をされて、悲しみ苦しんでいる人がいるのだ。
障がいの連鎖を断つという目的のために、障がい者は有無を言わせず断種手術を受けさせられた。

障がいは不幸なのだろうか?
それは、やはり本人はいざしらず、育てる親にとっては不幸の始まりだろう。
優生思想はそこに根源を持つ。
「五体満足」という言葉が、普通に使われているが、裏を返せば「障がい児はいらない」と言っているのと同じである。
私はそれを責めるのではない。
高齢出産は危険だというのもしかりだ。
高齢出産は母体への影響よりもダウン症児の発現が高まることを示唆していることは周知だろう。
防げるものなら防ぎたいというのが心情だろうし、なぜならダウン症児を抱えて生きていくことはイバラの道を行くことにほかならないからだ。
社会がまず、障がい児に冷たい。
障がい児の母子は、社会に後ろめたさを感じながら生きていかざるを得ない。
「障がい=しんどい」から「障がい=迷惑」に変化したからだ。

「障がい=しんどい」は、ある意味仕方のないことかもしれないが「障がい=迷惑」は思いやりで克服できるはずなのだ。

それでも母親は障がい児を産みたくない。
防げるものなら防ぎたい。
障がいのマイナスイメージは、そう簡単には払しょくできないものだ。
相模原市障がい者施設で起きた19人もの障がい者殺戮の犯人は「障がい者は生きていても意味がない」と動機を話した。
こういう考えにたどりつかない方法論はないものか?
「排除」ではなく「障がいをともに乗り越えて生きる覚悟」を育む思想だ。
健常者であっても生きていくことは楽しいことばかりではない、身体や精神以外の障がいは常にある。
その意味では、みんなが弱者になる可能性がある。

簡単に「迷惑だから排除」という考えに逢着しない思想の成熟を望む私である。