電気通信大学(国立大学法人)のキャンパスにある「UECコミュニケーションミュージアム」が今月のJARL NEWS(日本アマチュア無線連盟機関紙)に載っていた。
ここはアマチュア無線だけでなく、日本の無線技術の遺産を一堂に集めた、マニア垂涎の殿堂である。
プロの無線設備もあり、また音響関係の機材の遺産も豊富にある。
そして現代にいたるまでの通信機の変遷が立体年表のようになっており、火花放電式や管球時代からオールソリッドステート(トランジスタ化)になり、ポケベル、携帯電話、スマートフォンへと一つの道のりが示される。
これは絶対に見ておきたい博物館だ。
第一展示室には第二次世界大戦終結までの軍用無線機や、戦後高度成長期も活躍した、船舶無線機、JJY(日本標準電波)の送信機などが展示されているようだ。
第二展示室には、生活に密着した通信、テレビジョン、音響電化製品、電子計算機などが展示されている。
蓄音機や電蓄もあるし、鉱石ラジオなんてのもある。カシオの昭和37年ごろのリレー式電子計算機もあり、その巨大さと言ったら…表示がニキシー管(数字の形に電極を供えた真空管)だった。
ニキシー管は私たちの子供のころのゲームセンターにあったピンボールゲームの点数表示に使われていたっけ。
第三展示室には、J2HR/JA1BHR安川氏の無線機コレクションが並べられている。個人でこれほどのものをお持ちだったとは、驚嘆する。
アマチュア無線家のなかには結構なコレクターがいらっしゃるというのは聞いているが、この方もそうなんだろう。
氏のコールサインJ2HRは今の電波法ではなく戦前の法律で許可されたものである。日本が戦争に負け、「J」のみのプリフィクスを用いることが禁じられたので、とても貴重な、歴史あるコールサインである。
第四展示室は気象衛星「ひまわり」関連の装置が展示されていて、日本の衛星通信の歴史を垣間見ることができる。
第五展示室には、電気通信大学の前身の無線電信講習所の教室が再現されている。無線電信講習所は国が大正7年に創立し、去年に創立100周年を迎え、博物館の名称も表記の通りに改められた。
第六展示室にはたくさんの真空管がガラスケースの中に並び、さながら昆虫標本のようだ。とても貴重なコレクションである。
最後の第七展示室では、本校の発明品、核磁気共鳴装置、電波時計などが展示されている。

このミュージアムの二階の通路には、アマチュア無線家なら、足が止まって、進めなくなるような展示が並ぶ。
自作、メーカー品を問わず、古いものから新しいものまで無線機が並び、自分のアマチュア無線史と比較してどの年代に運用していたかが思い出としてよみがえるはずだ。
戦前の自作機には、物のない時代によくぞここまで作ったと感心しきりだろう。
私たちは、お店に行って出来合いを買ってくる無線家だったから、なにもない時代に無線機やアンテナから自作して運用していたアマチュア無線家は、フロンティア精神にあふれる冒険家だったのだと尊敬する。
真空管時代の無線機はいかにも「通信機然」としていて、いかつく、誇らしげでもあった。
遠い海の向こうの無線家と通信するには、これくらいのゴツイ無線機でなければ…子供ながらにそう思ったものだ。
マイクは放送用のぐらい大きく、「防衛庁式電鍵」は分厚い大理石の上にのっかって、カツンと棹(さお)がしっかり下りる。
子供の手には大きすぎるように思えた。
横振れ式のパドルキーがまだまだめずらしかった時代で、縦振れ電鍵ばかりだった。

私の思い出を語ると、長くなるが、アマチュア無線は「短波」「50MHz」「144MHz」に運用する人の嗜好が分かれていた。
「短波」運用をする人が、だいたいベテラン無線家であり、大型のアンテナタワーをお庭に立てて、八木アンテナを回転機でぶんまわして、世界を相手に運用しておられた(DXerと呼ばれた)。
お医者さんとか、会社の社長さんとか、大村崑さんとか、藤村有弘さんのような有名人が多かった。
タモリさんもそうだったのかもしれないが、あの方は過去を語らないので私は知らない。
それから短波の無線機はセパレート型といって、送信機と受信機が分かれているものがまだあった。
ほとんどがトランシーブ操作(トランシーバー:装置一つで送信周波数を合わせれば受信周波数も合う)できるようになっていたけれど、セパレートを好む人も少なからずいた。
セパレートはトランシーバにはできない「たすき掛け運用」ができたからだろう。
もちろんトランシーバでも外付けVFOをつければ「たすき掛け」はできる。
なんでこんなめんどくさい運用をしたがるのかというと、短波では送信元と受信元で電波事情が急変しやすく、相手局と申し合わせて、送受信の周波数を変えて通信する必要があったからと聞く。
つまり、短波運用では相手局が地球の裏側であったりするわけで、電波事情がまったく異なることもしばしばあったのである。
ビギナーでも欲しがったのは八重洲のFR-50B(受信機)とFL-50B(送信機)だったか?
免許取得前に受信機だけ購入して、受信で通信の仕方を学び、晴れて免許を取得してから送信機を購入して、一人前のアマチュア無線局になるという計画を練る無線家の卵もいたのだから。
短波では電話の電波形式がAMではなく、SSBという特別な変調が用いられ、いささか高級な回路となることから無線機が高価になるということもあり、ビギナーには敷居が高かった。

50MHzの無線家はビギナーが多かった。
当時は安価なAM変調無線機で通信できるのが50MHz帯だったからだと思う。
だから、やたら学生が多かった。
ハンディ機も50MHzならお小遣いを貯めて買えないことはないレベルのものが販売されていた。

144MHzはカー無線に特化していた。
先にFM変調という移動局にふさわしい変調が使われ、当初から、ほかの無線家とは趣が異なる。
アクティブな運用でキャンプやグループで無線を楽しむという方法が早くから定着したのは、モービルハムという人々のおかげだろう。
モータリゼーションにモービルハムは時代の先端を行っていて、自慢の自家用車にホイップアンテナを、誇らしくなびかせながら、車載機トランシーバで「CQ CQ」とやるのである。
だからか、すぐにトラッカー、ダンプカーの運ちゃんがアンカバ(違法局)で乱入し、荒らされた。
いまも、このバンドは「ガラが悪い」と敬遠する向きもあるが、純粋にアマチュア無線を楽しむ向きにはEスポなどの電離層のいたずらで思わぬ遠くの無線家とつながることもあり、面白みのあるバンドであることには違いない。

そういうアマチュア無線も隔世の感があり、こういった博物館に収まってしまうようなシロモノになってしまったことは悲しい限りだ。