あたしは、小6から中学を卒業するまで、男の子たちとプラモデル同好会に所属していた。
「同好会」とは後になってみんながそう呼ぶようになっただけで、同好の士が集まった仲良しグループだった。
学校から帰ると、町内の模型屋さんに直行して、集まる。
模型屋のおばさんが、なんでも相談に乗ってくれた。
ご主人や息子さんがいたと思うけれど、彼らはほとんど店に出てこなかった。
ただウィンドウに飾ってある模型は、ご主人が作ったものだと聞いていた。
あたしたちの参考になったのは言うまでもない。

プラモデルを作るにあたって、「箱絵(ボックスアート)」はとても大事であり、ディテールをそこから読み解くのだ。
もちろん参考書籍に当たってということもするのだけれど、いかんせん、子供には高価すぎて手が出せない。
プラモデル自体の価格も、お小遣いをやっと貯めて買えるシロモノだった。
プラカラー(塗料)などの副資材もばかにならなかったし。
小松崎茂

「箱絵」は必ず小松崎茂の絵だった。
海戦のシーンを切り取ったような、迫力ある画面で、主砲の咆哮が聞こえそうだ。
水雷の水柱が艦橋よりも高く上がっている。
挟叉(きょうさ)の水柱…
ウォーターラインシリーズの箱絵には魅了された。

父に訊くと、小松崎さんの絵は『機械化』という雑誌によく載っていたという。
この雑誌は戦時中に廃刊になったらしく、現在ほとんど残っていない。
当時の陸軍大将吉田豊彦の肝いりで創刊されたらしい。
父の話では、かなりSF的な内容で、電子兵器やら光線銃みたいなものが小松崎さんの絵でリアルに描かれていたそうだ。
当時少年だった父も、「これやったらアメリカに負けるはずがない」と思ったそうだ。
実際は夢物語だったわけね。

『機械化』や『子供の科学』、『少年画報』は当時の少年たちの心をつかんだ雑誌だったんだろう。
松本零士氏もこれらに影響を受けたと話しておられた。

小松崎茂は『少年ケニア』の山川惣治と少年誌の人気を二分していたという。
ほかに海野十三(うんのじゅうぞう)なんかも活躍して「冒険」が当時の子供心をくすぐった。
松本零士は海野十三からの影響も少なからず受けているとみえて、作品に海野の名前が出てきたり、宇宙戦艦ヤマト初代艦長「沖田十三」も新選組の沖田総司と海野十三から取ったものだそうだ。

さて、小松崎茂の絵は、あたしも、友人たちも気に入っていて、まあ、当時の田宮模型の箱絵は小松崎さんが一人で描いていたらしいから、彼の絵しかあたしたちは見たことがなかったのだ。

当時あたしは、艦船模型のウォーターライン(洋上模型)を主に作っていたけれど、途中から航空機と戦車に興味が移っていった。
艦船は所詮、航空機に勝てないと思い始めていたからかもしれない。
子供の考える理由なんで、単に興味が薄れたとか、金銭的に駆逐艦ばかりしか買えない不満もあったのかもしれない。
戦車模型は、戦車自体はけっこう、お値段も高いけれど、ジオラマ用の小物が充実していて、戦車一台あれば、あとは兵隊さんとかバイク、小型車両を買いそろえて楽しめた。
ロンメル戦車軍団にあこがれ、北アフリカの砂漠に思いをはせるのである。
変な少女だと思う。

でも戦争の悲惨さ、冷酷さもわかる思春期です。
だんだん兵器の暗い面にも目が行くわけ。
そこで飛行機なら、元は兵器でも、武装を外して、レーシングカーの塗装とデカールを貼って、国際エアレースを想定した改造を、あたしなりにしてみた。
男の子達には不評だったけど、あたしだけのモデルができたのは満足だった。
ガンメタリックのゼロ戦や、コルセア、黄色のメッサーシュミット、真っ赤なフォッケウルフ、ブルーとホワイトのスピットファイア、ムスタングは本当にエアレース仕様があって、それを参考にしました。
そして国際大会を開いて、スポーツマンシップにのっとったパイロンレースやドッグファイト、曲技を競うの。
「それやったらゼロ戦に勝るものはないで。なんせ軽い」
「いやいや、疾風(はやて)や、あれはレシプロでは当時、世界一や。燃油が悪いから実力が発揮できんかった」
「おれはやっぱし、ムスタングが勝つと思う。完成度が違う」
などなど、男の子たちも、あたしの考えに夢中になってくれた。

今となっては楽しい思い出だ。