部屋はシンナーの香りで満ちていた。
私は、戦艦「榛名(はるな)」の甲板のウェザリング(汚し塗装)を朝からやっているのだった。
左舷から始めて右舷に差し掛かろうとしたところだった。
「洋上模型」と呼ばれる、艦船を吃水(きっすい)で切ったプラモデルは大手メーカーから「ウォーターラインシリーズ」として売られていて、私たち中学生の自称「モデラー」の人気の的だった。

七百分の一という縮尺で揃えられた艦船模型は、艦隊を編成するとかなり見栄えのするものだった。

「横山は、女やのにプラモが好きなんてなぁ」と、クラスメイトの高田修司に不思議がられたものだ。
私は、中学に上がるまではプラモデルなど手に取ったこともなかった。ところが、中一の夏に、父の弟、周(めぐる)叔父が私の家に下宿させてくれところがりこんできたのである。
プラモデルは叔父の趣味の一つで、持参してきたミニチュアの群れを見て、私は一瞬にして虜(とりこ)にされてしまった。
叔父は、大阪府立大学の学生でそれまで交野市の私の祖父の実家から通っていたが、朝が早いので、この門真市から通いたいという希望から、父が「まあええやろ」と受け入れたのだ。
うちも借家で狭いのに、母はあまりいい顔をしなかったけれど。

高田修司も「モデラー」であり、春の遠足でふとしたことから、お互いの趣味を披歴することになり、同好の士としてつきあってきた。つきあうと言っても男女のそれではない。
修司だって、まだ子どもであり、まったく私に恋情を抱くようなそぶりも見せなかった。

私は、叔父からはもちろん、修司からもプラモデルの作り方の極意というか、秘訣をいろいろ教わった。
ランナーから部品を外すときは、手でむしってはいけない、必ずニッパーを使うのだとか、そのニッパーがなければ「爪切り」を使えとか。
小さい部品の塗装は、ランナーについたままやるのだとも教わった。

日本海軍の艦船模型を組み立てるには、プラモの箱絵や、参考になる文献を当たることが重要なことも、修司の仲間たちから教わり、書籍を借りたりした。

戦艦「榛名」は、「榛名山」から採られたと説明書にあり、「金剛型」の三番艦であるとも書かれている。
だいたい日本海軍の戦艦は「大和」や「武蔵」のように旧国名が命名されるのに、「金剛型」は「金剛」、「比叡」、「榛名」、「霧島」と山の名前になっているのが不思議だった。
もちろん、その由来はプラモデルの説明書に簡単に述べられていた。
もともと、装甲巡洋艦として計画されていたために、後の重巡洋艦と同じく山の名前が付されていたのを、巡洋戦艦として改装して運用したからだそうだ。
金剛型戦艦は、古いタイプの構想で生まれ、当初はイギリスの戦艦「ドレッドノート」を超える「超弩級戦艦(弩級とは「ドレッドノート級」の意味)」の触れ込みで建造されたにもかかわらず、金剛の建造中にイギリスの「インヴィシブル」に抜かされて、陳腐化してしまう。

ところで「金剛」はイギリスに発注して作ってもらった最後の戦艦で、姉妹艦「比叡」は日本の横須賀海軍工廠、「榛名」は川崎造船所、「霧島」は三菱長崎造船所で作られたという。初の民間への軍艦発注とあって、川崎と三菱は熾烈な競争を繰り広げ、「榛名」の試運転が遅れてしまい、川崎の責任者が自殺したという事件に発展してしまったそうだ。まさに命を賭けた「モノづくり競争」だったらしい。
「榛名」は、日本の造船の草創期を飾る、意義深い艦なのだと説明文は結んでいた。

一番艦の「金剛」が進水した直後、第一次世界大戦(当時は単に「世界大戦」と呼んでいた)が勃発してしまう。
日本は、この大戦では連合国側についており、ドイツとは敵対していたというのだが、中一の私はややこしいことを知らなかった。

「榛名」たちが装甲巡洋艦として構想され、軍縮会議の紆余曲折の結果、巡洋戦艦(最終的には戦艦)に改装されていき、速度重視だったスマートな艦は、装甲強化など艤装変更で次第に重くなって、バランスの悪い艦橋をそなえた格好の悪い戦艦になってしまったと私は思っている。ただ、大艦巨砲主義のもとで、比較的吃水が浅く、速度がそこそこ巡洋艦並みに出せた「金剛級」は、老朽艦とはいえ活躍の場が広かった。吃水が浅いと座礁の恐れが少ないし、未知の海域やサンゴ礁の多い海域では多用されたようである。

塗装を乾かしながら、私は窓の外に視線を向ける。
四月からは二年生だ。
私の勉強部屋は、棟割長屋(むねわりながや)の端にあり、裏はドブ川で、春の光が川面に反射して、薄暗い天井板をゆらゆらと照らしている。
本棚には、戦記物の本が増えて、とても女の子の部屋とは思えない。叔父がつくってくれた「飾り棚」に私の艦船模型が並んでいる。
「なおこ、ここにプラモを並べたらええ」と、去年の暮れに冬休みを利用して作ってくれたのだった。
叔父は、プラモデルもさることながら、ラジコンやアマチュア無線などと趣味が多彩だった。
「榛名」の資料も、ほとんど叔父が持っていたものを借りていた。「榛名」は図面が残っている数少ない戦艦であるが、途中でいろんな改装がおこなわれており、時代時代によって全く様子が変わってしまうのだった。
実は、戦艦にはありがちなことで、アメリカ海軍でも事情は同じらしい。真珠湾攻撃で沈められ記念館になったアメリカの戦艦「アリゾナ」は当初の「籠(かご)マスト」から三脚型に変更されていた。
戦艦に対する「用兵思想」が急速に変化していった第二次世界大戦であったと私は理解している。

「横山、榛名はできたけ?」
三学期の終業式の日、修司が尋ねてきた。
「まぁね。砲塔ってまっすぐにしとくもんなん?」
「シーナリー(背景)によるな。おまえは、どの作戦での榛名にしたいのや?」
「マレー沖海戦…」
「第二次近代化改装の後やんな」
「シルエットはね」
「マレー沖海戦で榛名は陸軍の上陸支援に当たったんやったっけ」
「そう。それかトリンコマリー攻略」
「マレーのあとやな。機動部隊と合流してってやつ」
「甲板カバーを外して、会敵寸前の払暁のシーンってとこ」
「空襲のおそれがあるのに、洋上で目立つ真っ白なカバーはせぇへんで」
「あ、そうか」
そんな会話をしていた。
そこに、前田義一が割って入って来る。彼は航空機専門のモデラーだ。
「お。なおぼん、昼から中島模型で集まるで」
中島模型は最も近い模型店である。おばさんが店番をしていて、ショーウインドーの展示模型はご主人が作っているそうだ。
「行けたら行くわ」「ほな」
そう言うと、前田はカバンを肩にかけて教室から出ていった。
「高田君の四号戦車はできた?」
修司は十五分の一という巨大なドイツ戦車のプラモを手掛けていて、ラジコンを組み込むそうだ。
四号突撃戦車(シュトルムゲシュツ)はモーターを左右二個搭載して、キャタピラを独立制御して2チャンネルプロポで方向転換できるらしい。
「モーターのノイズで誤作動すんねん」
「100ピコぐらいのコンデンサをつけたらどう?」
私はかつて叔父が、モーターに並列にコンデンサをはんだ付けしていたのを覚えていた。
「そんなん持ってへんわ」
「うち、持ってるし、あげるわ。アマチュア無線やってるから」
「へぇ、免許持ってんの」「電話級やけど」
驚いた表情で修司が「すごいな」と感心してくれる。

学校から帰って、食パンを焼いて食べ、すぐに中島模型に向かった。
「また模型屋さんかいな」と母にあきれられる。

ガラスのドアを引いて中に入ると、背を丸くして二人の男子がしゃがんでいる。
「前田君。来たよ」「おう、なおぼん」
もうひとりは「提督」のあだ名のある、柊智(ひいらぎさとし)だ。
「何見てんの?」
「提督がな、赤城にしよか、加賀にしよか迷ってんねん」
「へえ、こんど出たんや」「ここのおっちゃんが加賀を作って飾ってあるやろ」
「あ、これ?」
航空甲板にみっしりと戦闘機や艦攻が載せられている。その「加賀」は航空甲板が三段になっている初期の型だった。
ワシントン軍縮会議で戦艦保有の制限が加わったため、戦艦として計画された「赤城」と「加賀」だったが、あいつぐ設計変更でこの二隻は「三段甲板」という特殊な飛行甲板を持つ空母にされた経緯があり、モデラーの中ではその初期の型と、一枚甲板に改装され、ミッドウェー海戦で散った型の二つを作りたがるのだった。
「これってほんまに離発着できたんやろか?」私は棚の「加賀」を見ながら訊いた。
柊提督が、
「二段目も下段も使い物にはならんかったらしいよ。結局、一枚甲板にされてしまうからね」
と教えてくれた。
「三段のほうが、なんかかっこええのにね」
「そやなぁ」

後ろでカウンター越しに、店のおばちゃんが「ビスマルク」が来月入ると教えてくれる。
「ドイツの艦(ふね)かぁ。シャルンホルストとグナイゼナウも作らんとなぁ」と提督。さすが詳しい。
「よっしゃおれ、愛宕(あたご)にするわ。今回」と前田が立ち上がった。ずっと考えていたらしい。
重巡「愛宕」は「高雄」と同型艦の、第二艦隊旗艦(栗田艦隊)だった。
つまり戦艦「金剛」や「榛名」、「長門」、「大和」までも指揮下に置いて活躍した重巡なのであった。海軍では「提督」の乗艦が「旗艦」であり、それが駆逐艦であっても、空母であっても関係ないのである。

私はプラカラーの薄め液と平筆を買って、彼らと別れた。

そうして私は、今年、還暦を迎える。
今はもう、プラモデルなど手に取ることはない。
春が近づくと、あの頃を思い出すのだった。
シンナーや接着剤の匂いを嗅ぐと、十四歳の私に引き戻されるのだった。

(おしまい)