私もいろいろ太平洋戦争関係の書籍を読んだが、なかでも『「宗谷」の昭和史』(大野芳、新潮文庫)は微に入り細を穿つ記述でお勧めできる。
後に南極観測船となる「宗谷」が実に、幾多の困難を経て、海軍籍になって「特務艦」として南洋諸島の測量のため縦横に太平洋を航海した。
もとロシアの依頼で後に宗谷になるボロチャエベツ号とほか姉妹艦二隻の砕氷船が明治時代に発注された。
しかし、当時の日本の造船技術では、高いロシアの要求に応えられず、完成が延び延びになって納品できないでいた。
ロシアは業を煮やして幾度も催促し、日本の裁判所に訴え出たが、日本の裁判も政府の意向が反映されたのか結論を出さずに時間だけが過ぎて行った。
ロシアは崩壊し、ソビエト連邦になってもこの係争は放置され、ことあるごとに外交問題に浮上する。一方で、ボロチャエベツ号は未完のまま、輸送船として民間で働く船になったそうだ。
結局、先にも書いたように、帝国海軍がこのボロチャエベツ号を買い取る形になり「宗谷」と命名され軍艦として活用されることになった。
「宗谷」は砕氷船として特殊な船体を持ち、吃水の浅い「たらい」のような船で、ある程度積み荷を積まないと波高によってスクリューが空を切ることがあったらしい。
全長に対し全幅が広いということで速力もあまり期待できない船体だった。
砕氷の衝撃に耐えうるように船底を鋳鉄にせよというロシアの要望があり、これが工期を長引かせたともいう。
溶鉱炉(キューポラか?)を乾ドックに持ち込んで鋳込むのだから大変だ。
『戦艦武蔵』(吉村昭、新潮文庫)と比較して読むと、当時の造船技術の進歩の程度がよくわかる。

輸送船時代はそういう不具合もあったようで、軍艦にする際には装甲を厚くすることや、艤装で船体を重くして吃水を深くしたようである。
明治生まれの「宗谷」が、日中戦争や太平洋戦争を経て、戦後引き揚げ船として多くの帰還兵を日本に戻し、その後もなお、南極観測船の重責を担うのである。
「宗谷」は昭和史を体現している船だった。
現在、日本財団の「船の科学館」に「宗谷」は展示されている。
日本財団(旧日本船舶振興会)、すなわち笹川良一と「宗谷」は関係が深いのだった。

太平洋戦争が始まる前の年、昭和十五年、「宗谷」は南方海域で「第四艦隊」所属艦として海図の作成のために測量の任務にあった。
この行動はアメリカ海軍を刺激していた。
帝国海軍はその頃、太平洋南方海域に進出して、島々のサンゴ礁を削り、港を建設し、資材を運び込んで飛行場を建設したりしていたのである。
ちょうど、現在の中国が南シナ海で勝手にサンゴ礁に基地を作っているようなことを、日本もしていたわけだ。
日本とアメリカの関係は悪化の一途をたどっており、それは日本の中国進出であり、東南アジアでの勢力拡大を日本がもくろんで、ついには日独伊三国軍事同盟に参画するのではないかという懸念が現実のものとなろうとしていたからである。
アメリカは日本への石油の輸出を止めるという経済制裁を科し、日本の出方を見た。
昭和十六年1月22日、野村吉三郎駐米大使(海軍大将)は松岡洋右(ようすけ)外相の「十か条」訓令を持参してアメリカに発った。
訓令には「アメリカとともに日本は大東亜圏の開発に協力していきたい」旨がしたためられていた。
もちろん、日本の中国大陸への進出は、日本の国益のために必要不可欠だという立場の上でのことである。
ドイツのヨーロッパでの猛攻がフランスを併呑し、イギリスを窮地に追いやっていた頃で、チャーチル首相がアメリカに再三、参戦してくれと申し入れていたころである。
アメリカのルーズベルト大統領も、この世界情勢を鑑み、日本との折衝を急ぎたかった。

ところがワシントンのホワイトハウスでは、山本五十六連合艦隊司令長官が及川古志郎(おいかわこしろう)海相にしたためた意見書が俎上に上がり、問題視されていた。
「戦備ニ関スル意見」という表題の意見書が、駐日ペルー公使から駐日米大使に漏れたのである(戦後に発覚)。

山本長官の真意は、当時の国粋大衆党総裁笹川良一宛の手紙に現れている。
「浦波号」なる旅客機で笹川の手配で南方の諸島を視察旅行した際の礼状である。
笹川は、私設で航空学校を大阪で経営しており、山本長官と馬が合ったようだ。
笹川の興した航空学校の名残が大阪府八尾市にある「八尾空港」である。

「世上机上の空論を以て国政を弄ぶの際 躬行(きゅうこう)以て自説に忠ならんとする真摯なる御心掛には敬意を表し候 但し海に山本在りとて御安心などは迷惑千万にて 小生は単に小敵たりとも侮らず 大敵たりとも懼(おそ)れず聖諭(せいゆ)を奉じて 日夜孜々(しし)実力の錬成に精進致し居(お)るに過ぎず【中略】併(しか)し日米開戦に至らば己が目指すところ素(もと)よりグアム、比律賓(フィリピン)に非ず 将又(はたまた) 布哇(ハワイ)桑港(サンフランシスコ)に非ず 実に華府(ワシントン)街頭白堊館(ホワイトハウス)上の盟ならざるべからず 当路の為政家 果たして此本腰の覚悟と自信ありや (昭和十六年一月二十四日)」
と、山本は笹川に書簡をしたためている。
笹川も日米開戦には懐疑的であり、その点で山本と一致していた。

笹川は大阪の造り酒屋の出で、大衆右翼を名乗って政治団体を起こしたのが「国粋大衆党」であり、青年たちを空に導いたのが「国粋義勇飛行隊」だった。
当時山本五十六は日米開戦に及び腰だったために、急進派の陸軍などから「腰抜け」「臆病風の大将」と揶揄されていたのである。
しかし、渡米、渡欧経験のある山本は、当時のだれよりも世界の中の日本の立ち位置を自覚していたと言ってよい。

そして測量艦「宗谷」は、着々と日米開戦に備えた南方の測量を終えようとしていた。
私は『失敗の本質』(中公文庫)の表紙を飾る、南方戦線の当時の精密な地図を見るにつけ、いったい誰がこのような地図を作製したのか不思議に思っていた。
「宗谷」のような測量船やそれに従事した多くの人々がいたことに思いをはせるのだ。

戦後の宗谷の活躍については、また後日に書くことがあると思う。
「宗谷」を通じて、開戦前夜の山本と笹川の関係がわかって興味深かった。