筒居譲二の『太平洋戦争通史』(文芸社)を年表代わりに座右に置いているけれど、当時の内地の状況や、大陸の状況にはまったく触れられていないので、「日本の戦争」として把握するには足りないことが多い。
私は、終戦も近い昭和十九年末から翌年に中部地方を襲った「昭和東南海地震」という天災が日本に大きく影響したことを疑わないが、そういう点が同書には書かれていなかった。
「太平洋戦争」というテーマだから、「太平洋で起こった戦争」についてのみ事件を羅列しているのは仕方のないことかもしれない。
ただ、客観的(部分的に主観が入っているように思える部分もある)に事件を並べていて見やすいので、私は頻繁に引くことが多い。

では昭和19年12月7日白昼に起きた「昭和東南海地震」とはどのような震災だったのだろうか?
この地震は翌年1月13日未明の三河地震と連動して、かつ、終戦直後の昭和21年12月21日未明の南海地震にまでつながっているとみられる。

三菱重工の名古屋製作所大江工場の被害は甚大で、工場の機能は停止した。
大江工場では主に陸軍機の製造を行っていたらしいが、この地震で床面が波打ち、治具類がまったく使用不能に陥ったらしい(『技術者たちの敗戦』前間孝則、草思社文庫)。
三菱重工の航空機部門の多くが名古屋に集中しており、ゼロ戦を設計した堀越二郎技師も戦前からここに勤務していたようである。
この震災と、B29の来襲が頻繁になり、爆撃で残りの施設も使用不能になりつつあったことから、信州に技術と製造部門を疎開させるということになる。
堀越氏などは終戦を信州松本で迎えたそうだ。

当時の新聞では、この地震を軍部がアメリカ軍に知られないように秘匿したため、「諏訪地震」などというまったく見当違いの地震記事が掲載されていた。
軍部が隠したのは当然である。
先に示したように、我が国の航空技術の中枢が壊滅したとなると、アメリカの士気は上がり、わが軍の士気は急速に低下するだろうからだ。
しかしながら、すでにわが軍の航空戦力は地に落ちていた。
だいたい、内地深くまでB29がどうどうと侵入して爆撃をおこなっていく事実を、心ある者はどう受け取っただろうか?
大本営発表と目の前の事件はまったく正反対ではないか?
三菱の技術陣も、意識の高い人々だったから、これはいよいよ敗色が濃くなったなと感じていたそうだ。
発動機の納期が遅れ、機体に搭載することもできず、首のない機体が並ぶ工場に地震が襲い、さらに爆撃が完膚なきまで叩いた。
前線では、空母ごと航空機が海の藻屑となり、特攻隊が航空機を浪費した。
戦力は、もはや大和魂と竹槍のみか?というところまで日本軍は押しまくられていたのである。

明けて昭和20年1月13日、ふたたび中部地方を地震が襲った。三河地震である。

さかのぼって昭和18年の始め、カサブランカにおいてフランクリン・ルーズベルト米大統領が中心となって連合国が枢軸国に対し「無条件降伏」を求めることを明らかにした(カサブランカ会議)ことが、終戦処理の始まりとされる。
スターリンやチャーチルなどの連合国側の首脳とルーズベルトの主張は噛み合わなかったが、その年の11月、カイロ宣言でルーズベルトの意見が採択される。
日本に戦争の終息を求めるには天皇制を維持するということを明確にしてやれば、受け入れられやすいだろうというのがチャーチルたちの考えだったようである。
こんにち、北朝鮮に核廃絶を求める外交努力において、金正恩委員長一味の立場の安全を保証するというような議論に似ている。
ルーズベルトは当時、病魔に襲われていた。
昭和20年2月にヤルタで連合国の首脳会談がひらかれた。そこで調印されたのがヤルタ協定であることは、言うまでもない。
ヤルタ会談では主にドイツ問題を協議したが、当然ながら極東問題にも言及している。
つまり日本へ無条件降伏を迫る方策として、ソ連に日本への参戦をアメリカが促したのである。
この極東問題についての連合国とソ連の密約をヤルタ協定というのだった。
ソ連は、参戦の条件として千島、樺太、満州を支配下に置かせることを要求し、ヤルタ協定で確実なものとしたが、戦後、日本の北方領土問題はもとより、東西冷戦のきっかけになってしまう密約だった。
そしてついに、ルーズベルトは病に倒れ帰らぬ人となった。

ルーズベルトは生前、日本を降伏に導くために、原子爆弾の使用、ソ連の対日参戦誘導、そして日本本土侵攻作戦(ダウンフォール作戦など)を画策していたと言われる。

昭和20年四月にルーズベルトは病で亡くなり、ドイツはヒトラーが逃げて無条件降伏し、残すところは日本だけとなった。
ルーズベルトの跡を襲ったトルーマン大統領は、日本にポツダム宣言を受諾せよと迫るのである。
なかなか返事をよこさない日本政府に業を煮やしたアメリカ軍は、ついに広島と長崎に原子爆弾を投下してしまうのだった。

ふたたび、遡るが、昭和19年7月7日のサイパン陥落で日本兵が玉砕し、機動部隊の司令官、南雲忠一中将が自決したことが、もはや日本に勝ち目はないことを証明した。
だから同月18日に東條内閣は総辞職するのだった。
ミッドウェーでの失策以来、南雲中将は忸怩たる思いで過ごし、なんとか雪辱を遂げたかった。
この一途で、優柔不断で、不器用な司令官が、武人の矜持を保って自決したことを、尊いことだと思うのだ。
思えば、南雲は航空戦には疎く、どちらかといえば大艦巨砲主義的な海戦の専門家だった。
それなのに山本五十六連合艦隊司令長官は、南雲を第一航空艦隊および第三艦隊の司令長官に推すのだった。
航空戦技術の至らぬ点は、草鹿龍之介少将や源田実大佐に補佐させればよいと五十六は踏んでいた。
それが裏目に出たのがミッドウェー海戦だったと思われる。

いずれにせよ、昭和19年は日本の敗戦色が濃くなっていく年だった。
日本政府のなかでも終戦処理を考える動きが出てくる。
勝てなければ、無条件降伏しかない。
和平交渉をするには遅すぎた。
そこに、天災が日本を襲う。
軍用機の一大生産拠点を、地震と津波で失ったのである。

潜水艦による遣独技術交流も、いちだんと難しくなるころだった。
米軍に一矢報いる、もしくは大逆転を期待するには、ドイツの先進技術が必要だった。
レーダー一つとっても、日本の技術はお粗末極まりないものだった。
津田清一の『幻のレーダー ウルツブルグ』(CQ出版社)や吉村昭の『深海の使者』にそのことは詳しく述べられている。

日本の最終兵器ともいえるジェット戦闘機「橘花」とロケット戦闘機「秋水」は遣独事業で、多大な犠牲を払いながら得た技術で作られたが、それは終戦の直前に試作機が出来上がっただけに終わった。
ドイツのメッサーシュミットMe262「シュバルベ(つばめ)」を模した「橘花」は、試験飛行に成功したものの、二回目の飛行で破損して終戦を迎える。
同じく、ドイツのメッサーシュミットMe163「コメート(彗星)」を模した「秋水」は化学燃料の爆発で犠牲者を出すなど、まったくお話にならなかった。

昭和20年初頭は、技術陣も「もはやこれまで」の感が拭えなかったと思う。
それでも、ドイツからの少ない資料と、技師たちの記憶、想像力で独自に燃料噴射式発動機(ジェットエンジン)を突貫作業で作り上げた技術力は賞賛されてよい。
ロケット燃料の化学物質、水化ヒドラジンと過酸化水素水という爆発物を制御するのに、理研の女性化学者だった加藤セチ博士が割烹着姿で、疎開先の信州の地で寝食を惜しんで開発に当たったことも特筆すべきことだ。

戦争は、このように人を浪費し、物資を浪費した。
世界最大の戦艦を二隻も擁し、海の藻屑にしてしまった日本海軍。
また世界最大の空母に改装された大和型三番艦「信濃」も試験航行で潜水艦に沈められる。
そして世界初の核爆弾の実験場にされた広島と長崎で日本は完膚なきまで叩かれた。

戦争は何も残らない。
ただ、みんながんばった。
よく耐えた。
頭脳も技術も根性も、どこにも負けはしなかった。
戦争だから負けたのだ。
平和な競争なら、負けはしなかっただろう。

私は、戦史を読むにつけ、当時の日本人みんながよくがんばったと感じ入るのだ。
そして戦後の浮浪児、戦災孤児たちの災禍を思わずにはいられない。
彼らはどう生き、どう立ち上がって、はたまた消えていったのだろうか?
石井光太の『浮浪児1945 戦争が生んだ子供たち』(新潮社)を、ぜひ読まれることをお勧めする。

アニメ『この世界の片隅に』や『火垂るの墓』でもその悲惨さは描かれているが一部に過ぎないことが、石井光太の本を読めばわかるだろう。
アニメはやはり子供向けなのだから、あまり生々しくは描けないのかもしれない。

「戦争をしてはいけない」というテーゼをより強く補強する事実がここにある。