新型コロナウィルス禍によって「ソーシャルディスタンス」という新語が瞬く間に世間に広まった。
「感染防止のための社会的な対人間距離(の維持)」という意味だろうか?
私は最近までネコを飼っていたけれど、彼女は絶妙な「セーフティディスタンス」を維持していた。
動物行動学では「セーフティディスタンス」という術語がよく使われていて、ネコ好きの飼い主なら知っていると思う。
つまり、敵意あるものから、ちょうど届かない程度の距離感を彼らは本能的か、経験則なのか知らないが、心得ているのだ。
私が手をいっぱいに伸ばしてもわずか数センチメートル届かないところにお座りになるのである。
行動学の先生によれば、それは各種動物によって距離感が違うそうだ。
また、動物の知能の高低によるものでもなさそうであるようで、下等なやつらでも安全な距離を保つことには長けている。
昆虫でも、もし視力がもっと優れていたらちゃんと距離を保つだろう。
実はカマキリの仲間は目がかなりいいらしく、人間との距離感もつかんでいるらしいが、セーフティかどうかは、人間と彼らがあまりにも種が違いすぎ、大きさも違いすぎるのでよくわからない。
で、人間の「ソーシャルディスタンス」がいずれ「セーフティディスタンス」になりはしないかと、私は気をもんでいるのだ。
誰からも届かないけれど、見える位置…
こんな距離感を他人と取るようになれば、もはや「ソーシャル」は人間にとって邪魔なものでしかないというような寂しいことになりはしないか?
さむいね…お寒い限りだ。

ギリシャ時代の政治家、ペリクレスは、
「アテナイ人(びと)は富を追い求めるが、それは可能性を保つためであり、愚かしくも虚栄に酔いしれるためではない」と、のたまった。
そして、こうも言った。
「貧しいことは恥ずべきことではない。しかし、貧しさから脱する努力をせずに安住することこそ恥ずべきことだ」と。
今の世の中、貧富の差がいや増しているではないか?
だれもが好きで極貧に埋没しているのではない。
機会も与えられず、貧困にあえいでいるのだ。
それは自己責任なのだろうか?
ペリクレスに言わせれば、貧困そのものが罪悪なのではなく、そこから這い上がる努力こそが求められるとして、やはり自己責任論に逢着しそうである。
私は、世間で言えば不安定な仕事に就き、要介護4の旦那を面倒を見ながら彼の障害年金をあてに生活する貧困層であろう。
しかしながら、私には貧困の自覚はない。
ゆえに、貧困からの脱却も、今は考えていない。
要するに考えたくないのだ。
考えたところで、良い仕事があるわけもないのである。
今の不規則なパートの仕事があるだけでも良しとしなければならない。
在宅で、できるスキルもないからだ。
IT関連の仕事など、まったく無理な相談である。
彼らとは生きる世界が違うし、頭の使い方も違うから。
彼らの作った世界で遊ばせてもらうことはあっても、深入りはようしない。
するとペリクレスの亡霊がまた、私を苛むのだ。
「なおぼんよ、お前はなんと恥ずべき生き様だ。アテナイにはそんなやつはおらん」
と、言われそうだ。
上を向かない。
前を向かない。

「死んでしまおうかな」って思ったことがありませんか?
私は弱い人間なので何度も思った。
身近な人が死ぬたびに、「私も連れてってよ」と思った。
でもね、いざ死のうと思って、高いところに行ったりしてみるんだけど、足がすくんでだめなんだ。
こわいんだろうね。
そういうのを「意気地なし」って言うんだぜ…
どこからか声が聞こえた。
走ってくる特急電車に飛び込む勇気もなかった。
飛び込んで本懐を遂げた人の新聞記事を読んで「尊いことだ」と思った。
なんでそんな恐ろしいことができるんだろう。
目をつむって「えいっ」とやれるものだろうか?
大石内蔵助の切腹のシーンや、阿南惟幾(あなみこれちか)の割腹自決シーンも何度も観たけれど。
男という生き物を畏怖した。
「男はいざとなるとできるんや」と、勝手に思っていた。
かつて、旦那が健常なころに訊いたことがあったが、
「できるか、そんなん」と、きっぱりと言われてしまった。
当たり前か…
飼い猫の「みすゞ」の死にざまが潔かった。
二十二年近くも生きて、患っていたとはいえ、朝まで元気だったのが、昼前に私の目の前で痙攣をおこし、病院に行くも、手当もむなしく私の腕の中で逝った。
天寿を全うしたとはこのことかと、私は悲しみよりもすがすがしさを感じた。
私は、もがいて生きている。
見にくいものだ。
死ぬ時も、藁にもすがる思いで、のたうちまわるのだろうか?
腹をくくって、いさぎよく逝きたい。

あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし (大石良雄)