叔父がまだ住み込んでいなかったころの話。
棟割長屋の端の私の家には、囲むように庭があり、母がいろんな草花を育てていた。
庭の向こうには田んぼがあり、裏には用水路が流れていて、どぶ川だったが、農家の「肥え舟」と呼ばれる平底の木造舟が係留されていて、私たちはよく乗り込んで遊んだ。
門真にはこういった用水路が縦横に走っており、さながら水郷を成していた。
農家は、下肥をたご(桶)に汲んで舟に乗せ、自分の畑に運んだものだ。
もっとも私たちがそれを知る最後の世代であり、じきに多くの畑や田んぼは埋め立てられ、ついに私の家の裏には小学校が建ったのだった。
私は小学二年まで大和田小学校という何キロも離れた学校に歩いて通っていたので、三年生になると、この近い小学校「上野口小学校」に通えるといって喜んだものだ。
小学校の造成は子供たちにとって見物に値する大事業であり、ダンプカーが出入りし、くい打ちが始まると飽きもせずに眺めていたものだ。
このブログでも書いた、ヤノさんというダンプの運転手さんと知り合ったのもその頃だった。

この話はだから、私が小学校二年生までの話と思って読んでいただきたい。
家には風呂がなかったので、私たち家族は「百万石」という銭湯に通っていた。
父はそのころ大阪万博の建設現場の人夫の手配をやっていたらしく、忙しくてあまり家に帰ってこなかった。
帰って来てもかなり遅くて、私などはすでに寝ていることが多かった。

家から「百万石」まではかなり歩かねばならず、母と二人で風呂敷に包んだ洗面器などをぶらさげて精勤に通ったものだ。
冬は、それでも隔日(かくじつ)にお風呂に入るようにしていたかもしれない。
冬は寒くって、銭湯に行くのがおっくうだった。
帰りも湯冷めしそうで、嫌だった。
夜空を見上げると、星がきれいで、私の吐く息が白く夜空に吸い込まれるのを追いながら見上げていたのを思い出す。
星座なんていう知識もない頃だった。
母が歌を歌ってくれた。「雪の降る町を」だったと思う。
この歌を聴くとあの寒い夜道を思い出すのだ。
雪なんてめったに降らない大阪の町だったが、この歌を聴くと「遠い国から落ちてくる」雪がひとひら舞ってくるように思えた。
いろんな人がこの歌を歌っているが、なかでも倍賞千恵子さんが歌っていたのがなつかしい。
母の声に似ていたからだろうか?

そして銭湯の帰りに「帰ったら、父さんがいますように」と願う私がいた。
私は父が好きだった。
めったに会えないけれど、会うと、落語だの、ウソ話だのをおもしろおかしく、お酒を傾けながら私に話してくれるのだ。
だから、早く帰ってきてほしかったのだろう。
父は不規則な仕事なので、昼間に家にいることもあった。
友達のお父さんは、みな会社に勤めに出ているけれど、私の父はどうやらそういう勤め人ではないようだった。

小学二年の春から夏にかけて、父は私を何度か「大阪万博」に連れて行ってくれた。
自分の携わった仕事を私に見せたかったのかもしれない。