ネット社会の匿名性に物申すつもりでブログを始めたわけだが、もうかれこれ四年が過ぎた。
SNSでやってはいけないのが個人情報を垂れ流すことだ。
フェイクニュースや「炎上」などで被害を被るのは「善良」な個人である。
被害者の中には法人もあるだろうが、リテラシーがしっかりしていて、経済的、法的にも防御力のある組織と、素っ裸の個人とは比べ物にならない。
だから個人はSNSに情報をさらしてはいけないのである。
「情報は疑え」というのも、このブログで再三述べてきた。
「科学とは疑うことである」という姿勢。
ところで、あなたは「横山尚子」を疑ったことがあるだろうか?
どこの世界に本名を名乗って、このような破廉恥なブログを書く人がいるのかと訝(いぶか)しんだのではないだろうか?
「なおぼん」は自身の恥をさらしているかのように見える。
とはいえ、「なおぼん」は稀代の嘘つきだとブログで吐露していたはずだ。
「嘘は文学」だと言ってはばからず、「美しい嘘」を作り出すことに意義を見出していたように思える。
ご存知のようにwawabubuは法人である。
法人は個人かもしれないし、複数の人間で構成されているかもしれない。
性別は混沌としており、思想も然りである。
そして個人を特定しようとすれば、そこはぼやけ、さながら電子雲のようだ。
個人を「非局在化」させようと、もくろんだのがwawabubuなのだと言うことがおぼろげながら理解されよう。
ハイゼンベルクの著作に『部分と全体』(みすず書房)がある。
彼は「不確定性原理」を唱えた物理学者だ。
電子の位置を明確にしようとすれば、その運動量が不明確になる、その反対も同じだ。
すなわち電子の運動量とその位置を同時に知ることは量子的に不可能だということだ。
量子力学を例に、個人の不確定性を問うてみたら「なおぼん」ができたのである。
従って、「なおぼん」が実在するのか否か、「リアルかバーチャルか」という問いかけは無意味だ。
デカルトの言う「われ思う、ゆえにわれあり」は、「なおぼん」には当たらないのではなかろうか?
なぜなら「なおぼん」は実在しないからだ。
では一体、この思索の正体は何なのか?
それを知ろうとすればするほど、混沌とすることになるだろう。
中心のない、広がりだけがある世界。
「なおぼん」の全体は明確だが、その部分は見ようとしても見えない。
電子化されたブログという媒体(メディア)しか見えない。
言い換えれば、この世に信頼できる情報など何一つないということだ。
虚像が闊歩するSNSの世界。
かつて、我々は「横山尚子」を知っていた。
おそらく会っても、それが彼女であるとは、だれも認識できないだろうし、証明することも困難だと思う。
複数の人が「それは私だ」と言うかもしれない。
そして、もうこの世にいない人も含まれている可能性もあるのだ。
しかし法人なら不滅で、続けようと思えば永遠にその営みを続けることができる。
wawabubuが不死身なのはそういう理由である。
法人の死は「解散」でしかないとは民法の示すところである。
意思があれば何度でも死を選ぶことができるし、再生も可能である。
ただこのブログを書いている者がいることは、事実として記憶にとどめておいても良いかもしれない。
To be continue!
SNSでやってはいけないのが個人情報を垂れ流すことだ。
フェイクニュースや「炎上」などで被害を被るのは「善良」な個人である。
被害者の中には法人もあるだろうが、リテラシーがしっかりしていて、経済的、法的にも防御力のある組織と、素っ裸の個人とは比べ物にならない。
だから個人はSNSに情報をさらしてはいけないのである。
「情報は疑え」というのも、このブログで再三述べてきた。
「科学とは疑うことである」という姿勢。
ところで、あなたは「横山尚子」を疑ったことがあるだろうか?
どこの世界に本名を名乗って、このような破廉恥なブログを書く人がいるのかと訝(いぶか)しんだのではないだろうか?
「なおぼん」は自身の恥をさらしているかのように見える。
とはいえ、「なおぼん」は稀代の嘘つきだとブログで吐露していたはずだ。
「嘘は文学」だと言ってはばからず、「美しい嘘」を作り出すことに意義を見出していたように思える。
ご存知のようにwawabubuは法人である。
法人は個人かもしれないし、複数の人間で構成されているかもしれない。
性別は混沌としており、思想も然りである。
そして個人を特定しようとすれば、そこはぼやけ、さながら電子雲のようだ。
個人を「非局在化」させようと、もくろんだのがwawabubuなのだと言うことがおぼろげながら理解されよう。
ハイゼンベルクの著作に『部分と全体』(みすず書房)がある。
彼は「不確定性原理」を唱えた物理学者だ。
電子の位置を明確にしようとすれば、その運動量が不明確になる、その反対も同じだ。
すなわち電子の運動量とその位置を同時に知ることは量子的に不可能だということだ。
量子力学を例に、個人の不確定性を問うてみたら「なおぼん」ができたのである。
従って、「なおぼん」が実在するのか否か、「リアルかバーチャルか」という問いかけは無意味だ。
デカルトの言う「われ思う、ゆえにわれあり」は、「なおぼん」には当たらないのではなかろうか?
なぜなら「なおぼん」は実在しないからだ。
では一体、この思索の正体は何なのか?
それを知ろうとすればするほど、混沌とすることになるだろう。
中心のない、広がりだけがある世界。
「なおぼん」の全体は明確だが、その部分は見ようとしても見えない。
電子化されたブログという媒体(メディア)しか見えない。
言い換えれば、この世に信頼できる情報など何一つないということだ。
虚像が闊歩するSNSの世界。
かつて、我々は「横山尚子」を知っていた。
おそらく会っても、それが彼女であるとは、だれも認識できないだろうし、証明することも困難だと思う。
複数の人が「それは私だ」と言うかもしれない。
そして、もうこの世にいない人も含まれている可能性もあるのだ。
しかし法人なら不滅で、続けようと思えば永遠にその営みを続けることができる。
wawabubuが不死身なのはそういう理由である。
法人の死は「解散」でしかないとは民法の示すところである。
意思があれば何度でも死を選ぶことができるし、再生も可能である。
ただこのブログを書いている者がいることは、事実として記憶にとどめておいても良いかもしれない。
To be continue!
何を言おうと”なおぼん”は確実にいる。
複数であろうと横山直子であろうと。
私たちが大好きななおぼんはいる!!