白隠禅師(慧鶴:えかく)は江戸時代中期の臨済宗の僧です。
禅画や奇抜な書で、書家や好事家(こうずか)の間では人気の人物です。
なかでも、この「無」という一幅はいかがでしょう。
くずし方が独特ですが、「無」と読めます。
禅の世界では「無」の境地を求めることが修行なんでしょう。
「只管打坐(しかんたざ)」の教えも、「無」に至る方法として「ひたすら座禅する」ということらしいです。
私には到底無理な修行ですね。
この白隠の「無」の字を眺めると、字に点々が打ってあることに気づきます。
これはカビや汚れではなく、白隠の「遊び心」が打たせたと思われます。
まず薄い墨で「無」と揮毫し、「なんか物足らん」とぶつぶつ言いながら、今度は濃い墨でヒョウ柄のように打点していった…そんな想像が観る者に起こるようです。
それもかなり執拗に点を打っている。
「無」に「物足らん」という気持ちが起こるのもどうかと思いますが、白隠の人間臭さが垣間見られで面白い作品だと感じました。
禅画や奇抜な書で、書家や好事家(こうずか)の間では人気の人物です。
なかでも、この「無」という一幅はいかがでしょう。
くずし方が独特ですが、「無」と読めます。
禅の世界では「無」の境地を求めることが修行なんでしょう。
「只管打坐(しかんたざ)」の教えも、「無」に至る方法として「ひたすら座禅する」ということらしいです。
私には到底無理な修行ですね。
この白隠の「無」の字を眺めると、字に点々が打ってあることに気づきます。
これはカビや汚れではなく、白隠の「遊び心」が打たせたと思われます。
まず薄い墨で「無」と揮毫し、「なんか物足らん」とぶつぶつ言いながら、今度は濃い墨でヒョウ柄のように打点していった…そんな想像が観る者に起こるようです。
それもかなり執拗に点を打っている。
「無」に「物足らん」という気持ちが起こるのもどうかと思いますが、白隠の人間臭さが垣間見られで面白い作品だと感じました。
無我=雑念+好奇心+遊び心+我流点描
絶対矛盾の自己統一の書なのかも・・