私が引きこもっているのは、私の性格にあるのだと思う。
確信がある。
私は、幼いころから困難に立ち向かうことをせずに、安全な親の下に避難する性質の人間だった。
誰かの庇護に甘んじる生き方をしてきたからだ。
今も小さな世界で、世間と離れて好きなことだけをしているのは、その性格によるのだろう。

いつだったか、三十代のころだったと思うが、夢でこんなことを言われたことがあり、その言葉だけを覚えている。
「おまえは人の親になれない。なってはいけない」と。

その声がだれのものだったのか、今でもわからない。
私の心の声、良心の声だったのかもしれない。

この言葉を反芻しながらこれまで生きてきました。
なるほど、私の子がいたら、さぞかし、その子は不幸だったろう。
こんな無責任な人間に育てられた子供は、どうやってこの難しい世界で生きていけるのだ?
私だってこんな親なら願い下げである。
前向きな人がこれからも増えていけば、この世界も安泰だ。
私のような「後ろ向き」の人間の遺伝子など遺さぬ方が人のためだ。

あの「心の言葉」は、私の最後の良心だったのだろう。
私が、一人で生きて、一人で死んでいくことが、この世の中にとっても良いことだ。
なるべく迷惑を掛けないで、終末を迎えられたら、私は満足である。
きらら
逃げるばかりの人生、戦わない人生は、雑草の上に降り注ぐ雨粒に似ているかもしれない。
それでも、何かの役に立てればいいのだから。

立夏の慈雨 浴びて思ふは 長き道 (なおこ)

さまざまに 青天を背に 鯉のぼり (なおこ)

大いなる 影に見上げる 鯉のぼり (なおこ)

しゃべりつつ 糸口探す 粽(ちまき)かな (なおこ)