渡辺省亭(1852~1918)は日本画家で、先週の「日曜美術館」で取り上げられた(再放送だったかもしれない)。
省亭は俳人、渡辺水巴(すいは)とその妹、つゆの父親である。
番組ではそのことについて、一切触れていなかったので私は気づくことができなかった。
水巴とつゆの兄妹については、私も俳句を趣味としているので少しは知っていたけれど、その父親が省亭だったことを彼らの評伝を読んでおきながら失念していた。
省亭の日本画は、精密でありながら、生き生きとして、今にも画面から飛び出したりしそうだった。
体温すら感じさせる写実とでも言おうか。
(牡丹に蝶)
江戸中期の伊藤若冲もそのような画風で有名だけれど、省亭のそれは、図鑑にでも採用できそうな、実際、鳥類学者もそのように評していたほどの出来栄えなのである。
省亭は幼いころから絵が上手であったらしい。
彼の両親は事実婚(内縁)のまま省亭を産んだそうだ。歌人同士だった彼の両親は、父親の方が親友の細君と、その親友が亡くなったために懇(ねんご)ろになってしまったという。
そうして、とうとう親友の細君を孕ませてしまったというわけだ。
ならば、堂々と夫婦になればよいものを、家が許さなかったのか、父親が省亭を引き取って育てた(実際は父の兄夫婦に育てられた)ようである。
そんな生い立ちの中で絵の才能を見出された省亭は、以後、師と仰ぐことになる日本画家、菊池容斎に弟子入りをする。
容斎に「瞬時に目に映像を焼き付ける」という厳しい訓練を強いられ、ついにその奥義を体得する。
どんな動くもの、鳥類などでも正確にその生態を写し取ることができるようになったのである。
パリ万博出品とフランス遊学でも省亭は名を馳せ、フランス印象派の画家、エドガー・ドガに鳥の絵を即興で描いて見せ、贈っている。彼の描く姿はパリの衆人の耳目を集め、日本人にすごいのがいると話題になったそうだ。
今も、赤坂迎賓館の内装の壁に彼の絵を元絵にした七宝作品が多くはめ込まれている。
ただ、省亭は画壇から遠ざかり、次第に忘れ去られてしまうのだった。
彼は、かなりの自信家であり、歯に衣着せぬ物言いで画壇を批判したことが禍になったらしい。
竹内栖鳳や横山大観を厳しく批判したようだ。
俗からの逃避だったのか?
そうではない。彼の絵を欲しがる人は、まさに俗の人々だったからだ。
わかりやすく、美しい、上手な絵を描く市井の画家「渡辺省亭」は人気で、図案家、挿絵画家としての仕事は引く手あまただった。
省亭は世渡り上手だったのかもしれない。
そんな中で、妻を娶り、子を成し、家庭を築いていたが、派手な生活はやめられず、女にもだらしがなかった。
じきに、家計は傾き、省亭は家を出てしまう。
幼い水巴とつゆを、妻は女手一つで育てるも、病魔には勝てず、子供たちを遺して亡くなってしまう。
それでも省亭は子供たちとの縁を切らず、親らしいことはしなかったけれど、助けたのだろう。
そこには渡辺つゆの献身があったことは以前にブログに書いた。
兄の水巴も父譲りの放蕩息子で、苦労知らず。
つゆが、身を粉にして家事を切り盛りしてやっと生きていけたのである。
省亭も放蕩が祟ったのか、脳溢血を起こし体が不自由になって、娘の手を煩わせるようになり、六十七年の生涯を閉じた。
省亭の残した莫大な借財は、彼の残した絵でもってしても返しきれなかった。
結局、水巴、つゆの兄妹も極貧からの脱却はできなかった。
芸術家が遺した作品と、その人格は別物であるという典型を、私たちは鑑賞するときに少しは考えてもよいのではなかろうか?
なるほど、良い人格の持ち主でないと良い作品が創れないとは言い切れない。むしろ逆の方が多いようにも思える。
一芸に秀でた者は、なにかとトラブルを抱えやすいのかもしれない。
常識人では、抜きん出た作品に到達することができないのだろう。
「つまらない人間」には、人を感動させるものは創れないということではないだろうか?
省亭は俳人、渡辺水巴(すいは)とその妹、つゆの父親である。
番組ではそのことについて、一切触れていなかったので私は気づくことができなかった。
水巴とつゆの兄妹については、私も俳句を趣味としているので少しは知っていたけれど、その父親が省亭だったことを彼らの評伝を読んでおきながら失念していた。
省亭の日本画は、精密でありながら、生き生きとして、今にも画面から飛び出したりしそうだった。
体温すら感じさせる写実とでも言おうか。
(牡丹に蝶)
江戸中期の伊藤若冲もそのような画風で有名だけれど、省亭のそれは、図鑑にでも採用できそうな、実際、鳥類学者もそのように評していたほどの出来栄えなのである。
省亭は幼いころから絵が上手であったらしい。
彼の両親は事実婚(内縁)のまま省亭を産んだそうだ。歌人同士だった彼の両親は、父親の方が親友の細君と、その親友が亡くなったために懇(ねんご)ろになってしまったという。
そうして、とうとう親友の細君を孕ませてしまったというわけだ。
ならば、堂々と夫婦になればよいものを、家が許さなかったのか、父親が省亭を引き取って育てた(実際は父の兄夫婦に育てられた)ようである。
そんな生い立ちの中で絵の才能を見出された省亭は、以後、師と仰ぐことになる日本画家、菊池容斎に弟子入りをする。
容斎に「瞬時に目に映像を焼き付ける」という厳しい訓練を強いられ、ついにその奥義を体得する。
どんな動くもの、鳥類などでも正確にその生態を写し取ることができるようになったのである。
パリ万博出品とフランス遊学でも省亭は名を馳せ、フランス印象派の画家、エドガー・ドガに鳥の絵を即興で描いて見せ、贈っている。彼の描く姿はパリの衆人の耳目を集め、日本人にすごいのがいると話題になったそうだ。
今も、赤坂迎賓館の内装の壁に彼の絵を元絵にした七宝作品が多くはめ込まれている。
ただ、省亭は画壇から遠ざかり、次第に忘れ去られてしまうのだった。
彼は、かなりの自信家であり、歯に衣着せぬ物言いで画壇を批判したことが禍になったらしい。
竹内栖鳳や横山大観を厳しく批判したようだ。
俗からの逃避だったのか?
そうではない。彼の絵を欲しがる人は、まさに俗の人々だったからだ。
わかりやすく、美しい、上手な絵を描く市井の画家「渡辺省亭」は人気で、図案家、挿絵画家としての仕事は引く手あまただった。
省亭は世渡り上手だったのかもしれない。
そんな中で、妻を娶り、子を成し、家庭を築いていたが、派手な生活はやめられず、女にもだらしがなかった。
じきに、家計は傾き、省亭は家を出てしまう。
幼い水巴とつゆを、妻は女手一つで育てるも、病魔には勝てず、子供たちを遺して亡くなってしまう。
それでも省亭は子供たちとの縁を切らず、親らしいことはしなかったけれど、助けたのだろう。
そこには渡辺つゆの献身があったことは以前にブログに書いた。
兄の水巴も父譲りの放蕩息子で、苦労知らず。
つゆが、身を粉にして家事を切り盛りしてやっと生きていけたのである。
省亭も放蕩が祟ったのか、脳溢血を起こし体が不自由になって、娘の手を煩わせるようになり、六十七年の生涯を閉じた。
省亭の残した莫大な借財は、彼の残した絵でもってしても返しきれなかった。
結局、水巴、つゆの兄妹も極貧からの脱却はできなかった。
芸術家が遺した作品と、その人格は別物であるという典型を、私たちは鑑賞するときに少しは考えてもよいのではなかろうか?
なるほど、良い人格の持ち主でないと良い作品が創れないとは言い切れない。むしろ逆の方が多いようにも思える。
一芸に秀でた者は、なにかとトラブルを抱えやすいのかもしれない。
常識人では、抜きん出た作品に到達することができないのだろう。
「つまらない人間」には、人を感動させるものは創れないということではないだろうか?