『論語』に「中庸の徳たるや、其(そ)れ至れるかな。民鮮(たみすく)なきこと久し」と「中庸」を良しとする孔子の言の記載がある。
この「中庸」とは「過不足なく、平常を保つ」ことであると、朱子が解説を与えている。
「中庸の徳性はすばらしいが、そういったことを理解して実践している人が少なくなって久しいなぁ」と孔子が残念がっているというのである。
儒教において「中庸」は根本思想の一つであるとされている。
朱子が解説を加えている「過不足なく、平常を保った」状態とはどんな思想なのだろうか?
今の言葉で言ったら「バランスの取れた考え方であり、落ち着いた立ち居振る舞い」であるとなろうか?
思想の左右に偏らず、文武両道で、保守的かと言えば、進取の気概もあり、絶えず変化を求めるも、急激な変化は避けるような振る舞いであろう。
守旧や、懐古的、内省的、消極的ではないが、急進的、革命的、破壊的でもない。
「保守中道」なんていう政治の言葉があるが、あれは「右顧左眄(うこさべん)」の結果であり、思想的に優れているものではない。つまりは「中途半端」と同義語だ。
「中庸」は立派な思想である。
その真意は朱子が解説したとおりであり、それ以外の意味はない。
至極簡単なことである。
また、孔子は「中庸は徳である」と説いた。
人として生きる目標が「徳」を積むことなのだ。
その「徳」の一つが「中庸」である。あるいは「中庸であれ」ということなのだ。
全ての物事をおこなう前提、心の準備が「中庸であれ」ということなのだ。
中庸の心で、人の意見に耳を傾け、書物を読み解くと、「平常心」というものに心がなっているはずだ。
天秤のような「心」は、風を受ければ傾きもする。しかし、平衡を保とうともするはずだ。
「テーミス(または正義)の天秤」である。
その天秤を携えるテーミスの女神は目隠しをしているはずだ。
その意味は、言わずもがなである。
誰でも知っているはずだ(ゲーテの解釈による)。
科学的に物事を見るのも、先入観に左右されず、または恣意を含まず、結果を真摯に受け止めることがまさに「中庸であれ」ということに等しい。
今の新コロの政府対応はどうか?「中庸」か?
「中途半端」で多分に恣意的だ。「中庸」であるはずがない。まず科学に対して謙虚でない。
変化に対して「ぶれるな」とは言わないが、ぶれすぎで、そのぶれ方が根拠薄弱で、説明すらできないではないか?
日本人は昔から「中庸」を曲解してきた。
坂口安吾『堕落論』の中で、
「元来日本人はもっとも憎悪心の少ないまた永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう」
と書いている。
これは戦後間もない、日本国民の「手のひら返し」を揶揄し、赤穂浪士の仇討ちを引き合いに出して、あのような「忠誠心」があったか?と問いかけている。
江戸時代の「仇討ち」物語は、虚構であって、実のところ、そうでないから日本人の心を打ったのだろう。武士のメンツというものは確かにあった。しかしそれは簡単に、捨て去って生きていけるのが日本人なのだ。
安吾は言う、「日本人は歴史の前ではただ運命に従順な子供であったにすぎない」と。
さらに「武士道は人性や本能に対する禁止条項であるために非人間的反人性的なものであるが、その人性や本能に対する洞察の結果である点においては全く人間的なもの」とまで言うのだった。
ここで彼の言う「人性」とは人の「人間らしい面」であり、「本能」とは「獣性」にあたるものを言っているのだと思う。
『堕落論』では「美しいものは美しいまま終わらせる」という日本人の美学を、赤穂浪士の事件があたかもそうであるように説いている。
確かに幕府公儀は、赤穂浪士全員に切腹を命じたのは、「生き恥を曝させない」親心からだとされている。
流刑では軽すぎるし、打ち首獄門では武士の名に恥じるし、なにより忠君の教えに反する。
福沢諭吉が『学問ノススメ』で赤穂浪士の事件を「野蛮」だと一蹴したが、それは公儀の裁きのことではなく、赤穂浪士たちの「仇討ち」に名を借りた「蛮行」を、裁判によらない、開化しないやり方だと批判したのである。
浪士が四十七人もいれば、一人ずつ、「お上」に訴え出れば、公儀の重い扉も開かないとは言えないと。
つまりは「目には目を歯には歯を」というようなやり方では「暴力の連鎖」を断ち切れないからである。
「中庸」とはまさにそういうことなのである。
暴力に訴えず、人の意見を聞き、よくよく考えてから自分の意見を述べることが「中庸であれ」の第一歩なのだから。
人間が作り上げた理想から堕ちる「堕落」を安吾が戦争を経験して『堕落論』を示したのだ。
貞節を守った戦災未亡人が、生活のために、廃墟で春をひさぐという、笑うしかないような「堕ち方」を安吾は冷徹に観ている。
それは傍観かもしれないが、自分もそのことで堕ちていくことを自覚する。
そしてそこから這い上がるのも人間なのである。
「中庸が徳であるような世の中は久しくなった」と嘆いた孔子もまた同じ景色を見ていたのだろう。
この「中庸」とは「過不足なく、平常を保つ」ことであると、朱子が解説を与えている。
「中庸の徳性はすばらしいが、そういったことを理解して実践している人が少なくなって久しいなぁ」と孔子が残念がっているというのである。
儒教において「中庸」は根本思想の一つであるとされている。
朱子が解説を加えている「過不足なく、平常を保った」状態とはどんな思想なのだろうか?
今の言葉で言ったら「バランスの取れた考え方であり、落ち着いた立ち居振る舞い」であるとなろうか?
思想の左右に偏らず、文武両道で、保守的かと言えば、進取の気概もあり、絶えず変化を求めるも、急激な変化は避けるような振る舞いであろう。
守旧や、懐古的、内省的、消極的ではないが、急進的、革命的、破壊的でもない。
「保守中道」なんていう政治の言葉があるが、あれは「右顧左眄(うこさべん)」の結果であり、思想的に優れているものではない。つまりは「中途半端」と同義語だ。
「中庸」は立派な思想である。
その真意は朱子が解説したとおりであり、それ以外の意味はない。
至極簡単なことである。
また、孔子は「中庸は徳である」と説いた。
人として生きる目標が「徳」を積むことなのだ。
その「徳」の一つが「中庸」である。あるいは「中庸であれ」ということなのだ。
全ての物事をおこなう前提、心の準備が「中庸であれ」ということなのだ。
中庸の心で、人の意見に耳を傾け、書物を読み解くと、「平常心」というものに心がなっているはずだ。
天秤のような「心」は、風を受ければ傾きもする。しかし、平衡を保とうともするはずだ。
「テーミス(または正義)の天秤」である。
その天秤を携えるテーミスの女神は目隠しをしているはずだ。
その意味は、言わずもがなである。
誰でも知っているはずだ(ゲーテの解釈による)。
科学的に物事を見るのも、先入観に左右されず、または恣意を含まず、結果を真摯に受け止めることがまさに「中庸であれ」ということに等しい。
今の新コロの政府対応はどうか?「中庸」か?
「中途半端」で多分に恣意的だ。「中庸」であるはずがない。まず科学に対して謙虚でない。
変化に対して「ぶれるな」とは言わないが、ぶれすぎで、そのぶれ方が根拠薄弱で、説明すらできないではないか?
日本人は昔から「中庸」を曲解してきた。
坂口安吾『堕落論』の中で、
「元来日本人はもっとも憎悪心の少ないまた永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう」
と書いている。
これは戦後間もない、日本国民の「手のひら返し」を揶揄し、赤穂浪士の仇討ちを引き合いに出して、あのような「忠誠心」があったか?と問いかけている。
江戸時代の「仇討ち」物語は、虚構であって、実のところ、そうでないから日本人の心を打ったのだろう。武士のメンツというものは確かにあった。しかしそれは簡単に、捨て去って生きていけるのが日本人なのだ。
安吾は言う、「日本人は歴史の前ではただ運命に従順な子供であったにすぎない」と。
さらに「武士道は人性や本能に対する禁止条項であるために非人間的反人性的なものであるが、その人性や本能に対する洞察の結果である点においては全く人間的なもの」とまで言うのだった。
ここで彼の言う「人性」とは人の「人間らしい面」であり、「本能」とは「獣性」にあたるものを言っているのだと思う。
『堕落論』では「美しいものは美しいまま終わらせる」という日本人の美学を、赤穂浪士の事件があたかもそうであるように説いている。
確かに幕府公儀は、赤穂浪士全員に切腹を命じたのは、「生き恥を曝させない」親心からだとされている。
流刑では軽すぎるし、打ち首獄門では武士の名に恥じるし、なにより忠君の教えに反する。
福沢諭吉が『学問ノススメ』で赤穂浪士の事件を「野蛮」だと一蹴したが、それは公儀の裁きのことではなく、赤穂浪士たちの「仇討ち」に名を借りた「蛮行」を、裁判によらない、開化しないやり方だと批判したのである。
浪士が四十七人もいれば、一人ずつ、「お上」に訴え出れば、公儀の重い扉も開かないとは言えないと。
つまりは「目には目を歯には歯を」というようなやり方では「暴力の連鎖」を断ち切れないからである。
「中庸」とはまさにそういうことなのである。
暴力に訴えず、人の意見を聞き、よくよく考えてから自分の意見を述べることが「中庸であれ」の第一歩なのだから。
人間が作り上げた理想から堕ちる「堕落」を安吾が戦争を経験して『堕落論』を示したのだ。
貞節を守った戦災未亡人が、生活のために、廃墟で春をひさぐという、笑うしかないような「堕ち方」を安吾は冷徹に観ている。
それは傍観かもしれないが、自分もそのことで堕ちていくことを自覚する。
そしてそこから這い上がるのも人間なのである。
「中庸が徳であるような世の中は久しくなった」と嘆いた孔子もまた同じ景色を見ていたのだろう。