その日はたいそう西風の強い朝だった。
ローザは寝床から出ると、かたかたと風に鳴っている窓辺に近づいた。
窓の外には見なれたストックホルムの街並みが眺められた。
「そうだ、先生との約束があったのだわ」
彼女が「先生」と呼んで尊敬している薬師(くすし)のシェーレが、ウプサラの「山師」に会いに行くので同行するのだった。
「薬師」とは、その昔「錬金術師(アルケミスト)」と呼ばれて、気味悪がられていた人々の末裔だと「先生」がローザに冗談交じりに話したことがあった。
ローザが神学者の父の勧めでストックホルムの神学校の手伝いに入っていた頃、シェーレ先生に偶然に会ったのである。まだ十二歳のころだった。
シェーレはその学校で「薬学」の教授をしていた。
シェーレには専用の部屋が与えられていて、そこの掃除や片付けをローザが受け持っていたのである。
「先生は、いろんな本をお読みになっているんですね」と、ちらかった、ぶ厚い本を片付けながら言ったものだ。
「ああ、うむ…本は友人だ。なんでも教えてくれる」
しわがれた声で、シェーレは答えた。その声は、ひどく年老いて聞こえたが、先生はまだ若かったはずだとローザは知っている。彼女とは十歳ほどしか違わないのだから。
本だけではない。不思議な「拡大鏡」や、レトルトとかいう丸いガラスの容器、乳鉢、てんびんなどが窓際の明るい場所の机に並べられ、一種独特の雰囲気をかもしだしていた。
じきに、ローザはシェーレの信頼を得て、彼の営む「薬剤所」の助手に取り立てられたのだった。女の子にしては、覚えが早く、書物や鉱物の分類も正確にやってのけたからである。
「それはライム(石灰石の一種)だ、そっちは磁鉄鉱だな。ほら砂鉄がくっついているだろう?」
「あら、ほんと」
何の変哲もない「石」にこれほど、さまざまな姿があるのかと、ローザはあらためて感じ入った。
「先生、あたし、女でも薬師になれるでしょうか?」
シェーレはそのまっすぐな若い瞳を見て、
「ああ、なれるとも。ローザはかしこいからね」
と、折り紙を付けた。
ローザの父は、シェーレのことを良く知っていて、娘がシェーレに弟子入りすることに反対はしなかった。
ローザにはほかにも兄弟があったこともあり、独り立ちしてくれるなら父にとって願ってもないことだったのだ。
そんなことを思い出していたローザは、夜具を仕舞い、身支度をして一階の先生の部屋をたずねた。
先生は、山登りの用意を済まして、靴紐を結んでいるところだった。
「やあ、おはよう。ローザ」
「先生、もう行くんですか?」
「言わなかったかな。ウプサラからまだ北のファールンの銅山に行くんだよ」
ファールンと言えばスウェーデン王室直轄の銅山である。
シェーレはウプサラの大学の鉱物と冶金(やきん)教授たちとも親しくしていた。
これまで何度も大学に招聘の話が持ち上がっていたのに、シェーレは縛られるのが好かないのか、断り続けていたのだった。
ローザも、先生との山行はこれが初めてではない。
王国北西部の山々には幾度も同行していた。
また、この国に多い川にも入って、砂金取りのような仕事も手伝った。
そんな中で、ローザも鍛えられていったのである。
重く固い革靴を履き、肩に食い込む荷を背負い、足場の悪い道を行くこともしばしばだった。
道のあるところは馬車を使ってくれるのだが、「石」のある場所には徒歩でしか近づけないからだ。
カール・ヴィルヘルム・シェーレは今でこそストックホルムに住んでいるが、名前が示す通りドイツ系の家系に生まれた。
彼は大陸側のポメラニアで育ったが、そこはドイツでありながらスウェーデンの領地だったのである。
ローザたちは、あとひと月もすれば夏至になる五月にウプサラに向かった。
二頭立ての馬車に乗って。
御者の後ろでシェーレとローザは肩を並べながら、後ろ向きに座って、春風に吹かれていた。
「どうだ、一面にお花畑だ」
「いい季節ですね。今朝はたいそう寒かったですのに」
放牧の牛が草を食んでいる。
運河がゆっくり流れている。
御者が、何やら歌っている。
馬車がきしんで、単調なリズムを刻む。
「モリブダン(輝水鉛鉱)をイェルム君が調べてるんだが」
山師のペーター・イェルムはシェーレの実験助手で、ローザの先輩だった。イェルムは先にウプサラに入っていて、そこで合流することになっていた。
「新しいマテリア(元素)が含まれているんですね?」
「鉛と思っていたら、どうも違うのだよ。あの石は」
シェーレ先生は、両手を上げて伸びをした。
ガタピシする馬車の荷台では、体が凝り固まってしまうのだった。
方位磁石や六分儀、アストロラーベの木箱、鏨(たがね)や金づち、磨いたガラスの拡大鏡が入った鹿皮の袋が荷台に収まって、馬車に揺られててんでに音を奏でている。
ウプサラに着いたのは夕方だったが、まだ太陽は沈んでいない。
それでも少し冷気が刺したのでローザは厚手の外套(がいとう)をまとった。
荷物は馬車に乗せたまま大学の中庭に置かれた。御者は自分の宿にさっさと引き上げていった。
門番のヨアヒムという老人に荷物の番を言いつけて、シェーレたちは黄昏のウプサラの町に出た。
「ハンスの酒場に行こう。イェルムとそこで落ち合うんだ」
シェーレはローザを伴って石畳の小道を急いだ。
道の左右には、酒場や焼き肉を店先で売っているのや、パンの香ばしい匂いをさせている店などが軒を連ねている。
猫がそこかしこに寝そべっている。
風に揺れている、字の消えかかった看板を下げたみすぼらしい店に、シェーレは慣れた様子で入っていく。
「おう、先生」
先に声を掛けたのは、角の盃でビールをあおっていたイェルムだった。
ちょっと見ないうちに、あご髭がぼうぼうである。
「もうやってるのか。ローザこっちに来なさい」
「はぁ」
「先生もビア、飲むでしょう?おやじ!この方にも同じものを。それからローザにはコケモモのジュースを」
てきぱきとイェルムは注文をしてしまう。
寡黙な「おやじ」はなめし皮のチョッキを、小粋に羽織って目で笑う。
ローザもつられて笑顔になる。
客は、他に男女合わせて四人いた。土地の人なのだろう。
訛りの強い言葉でローザには聞き取れなかった。
パンと、鳥の焼いた肉、スープで夕食をその酒場で食べ、ローザも少し葡萄酒を飲んだ。
「その鳥はハトだよ。うまいだろ」と イェルム。
「まぁ、そうなの?ちょっとかわいそう」
そう言いながらも、ローザはすっかりご満悦だった。
「あしたはファールンに入るぞ」先生が、ビールの泡の口で宣言する。
「あそこはねウプサラ大学の教授の推薦状がないと入れないんですぜ、先生」
「そりゃ、お前が手はずを整えてもらわないと」
「わかってます。ちゃんとせしめてありますよ。ヤンセン先生の推薦状をもらってます」
「うむ」
その日は、大学の学生寮の空き部屋に三人は泊めてもらうことになっていた。
(つづく)
ローザは寝床から出ると、かたかたと風に鳴っている窓辺に近づいた。
窓の外には見なれたストックホルムの街並みが眺められた。
「そうだ、先生との約束があったのだわ」
彼女が「先生」と呼んで尊敬している薬師(くすし)のシェーレが、ウプサラの「山師」に会いに行くので同行するのだった。
「薬師」とは、その昔「錬金術師(アルケミスト)」と呼ばれて、気味悪がられていた人々の末裔だと「先生」がローザに冗談交じりに話したことがあった。
ローザが神学者の父の勧めでストックホルムの神学校の手伝いに入っていた頃、シェーレ先生に偶然に会ったのである。まだ十二歳のころだった。
シェーレはその学校で「薬学」の教授をしていた。
シェーレには専用の部屋が与えられていて、そこの掃除や片付けをローザが受け持っていたのである。
「先生は、いろんな本をお読みになっているんですね」と、ちらかった、ぶ厚い本を片付けながら言ったものだ。
「ああ、うむ…本は友人だ。なんでも教えてくれる」
しわがれた声で、シェーレは答えた。その声は、ひどく年老いて聞こえたが、先生はまだ若かったはずだとローザは知っている。彼女とは十歳ほどしか違わないのだから。
本だけではない。不思議な「拡大鏡」や、レトルトとかいう丸いガラスの容器、乳鉢、てんびんなどが窓際の明るい場所の机に並べられ、一種独特の雰囲気をかもしだしていた。
じきに、ローザはシェーレの信頼を得て、彼の営む「薬剤所」の助手に取り立てられたのだった。女の子にしては、覚えが早く、書物や鉱物の分類も正確にやってのけたからである。
「それはライム(石灰石の一種)だ、そっちは磁鉄鉱だな。ほら砂鉄がくっついているだろう?」
「あら、ほんと」
何の変哲もない「石」にこれほど、さまざまな姿があるのかと、ローザはあらためて感じ入った。
「先生、あたし、女でも薬師になれるでしょうか?」
シェーレはそのまっすぐな若い瞳を見て、
「ああ、なれるとも。ローザはかしこいからね」
と、折り紙を付けた。
ローザの父は、シェーレのことを良く知っていて、娘がシェーレに弟子入りすることに反対はしなかった。
ローザにはほかにも兄弟があったこともあり、独り立ちしてくれるなら父にとって願ってもないことだったのだ。
そんなことを思い出していたローザは、夜具を仕舞い、身支度をして一階の先生の部屋をたずねた。
先生は、山登りの用意を済まして、靴紐を結んでいるところだった。
「やあ、おはよう。ローザ」
「先生、もう行くんですか?」
「言わなかったかな。ウプサラからまだ北のファールンの銅山に行くんだよ」
ファールンと言えばスウェーデン王室直轄の銅山である。
シェーレはウプサラの大学の鉱物と冶金(やきん)教授たちとも親しくしていた。
これまで何度も大学に招聘の話が持ち上がっていたのに、シェーレは縛られるのが好かないのか、断り続けていたのだった。
ローザも、先生との山行はこれが初めてではない。
王国北西部の山々には幾度も同行していた。
また、この国に多い川にも入って、砂金取りのような仕事も手伝った。
そんな中で、ローザも鍛えられていったのである。
重く固い革靴を履き、肩に食い込む荷を背負い、足場の悪い道を行くこともしばしばだった。
道のあるところは馬車を使ってくれるのだが、「石」のある場所には徒歩でしか近づけないからだ。
カール・ヴィルヘルム・シェーレは今でこそストックホルムに住んでいるが、名前が示す通りドイツ系の家系に生まれた。
彼は大陸側のポメラニアで育ったが、そこはドイツでありながらスウェーデンの領地だったのである。
ローザたちは、あとひと月もすれば夏至になる五月にウプサラに向かった。
二頭立ての馬車に乗って。
御者の後ろでシェーレとローザは肩を並べながら、後ろ向きに座って、春風に吹かれていた。
「どうだ、一面にお花畑だ」
「いい季節ですね。今朝はたいそう寒かったですのに」
放牧の牛が草を食んでいる。
運河がゆっくり流れている。
御者が、何やら歌っている。
馬車がきしんで、単調なリズムを刻む。
「モリブダン(輝水鉛鉱)をイェルム君が調べてるんだが」
山師のペーター・イェルムはシェーレの実験助手で、ローザの先輩だった。イェルムは先にウプサラに入っていて、そこで合流することになっていた。
「新しいマテリア(元素)が含まれているんですね?」
「鉛と思っていたら、どうも違うのだよ。あの石は」
シェーレ先生は、両手を上げて伸びをした。
ガタピシする馬車の荷台では、体が凝り固まってしまうのだった。
方位磁石や六分儀、アストロラーベの木箱、鏨(たがね)や金づち、磨いたガラスの拡大鏡が入った鹿皮の袋が荷台に収まって、馬車に揺られててんでに音を奏でている。
ウプサラに着いたのは夕方だったが、まだ太陽は沈んでいない。
それでも少し冷気が刺したのでローザは厚手の外套(がいとう)をまとった。
荷物は馬車に乗せたまま大学の中庭に置かれた。御者は自分の宿にさっさと引き上げていった。
門番のヨアヒムという老人に荷物の番を言いつけて、シェーレたちは黄昏のウプサラの町に出た。
「ハンスの酒場に行こう。イェルムとそこで落ち合うんだ」
シェーレはローザを伴って石畳の小道を急いだ。
道の左右には、酒場や焼き肉を店先で売っているのや、パンの香ばしい匂いをさせている店などが軒を連ねている。
猫がそこかしこに寝そべっている。
風に揺れている、字の消えかかった看板を下げたみすぼらしい店に、シェーレは慣れた様子で入っていく。
「おう、先生」
先に声を掛けたのは、角の盃でビールをあおっていたイェルムだった。
ちょっと見ないうちに、あご髭がぼうぼうである。
「もうやってるのか。ローザこっちに来なさい」
「はぁ」
「先生もビア、飲むでしょう?おやじ!この方にも同じものを。それからローザにはコケモモのジュースを」
てきぱきとイェルムは注文をしてしまう。
寡黙な「おやじ」はなめし皮のチョッキを、小粋に羽織って目で笑う。
ローザもつられて笑顔になる。
客は、他に男女合わせて四人いた。土地の人なのだろう。
訛りの強い言葉でローザには聞き取れなかった。
パンと、鳥の焼いた肉、スープで夕食をその酒場で食べ、ローザも少し葡萄酒を飲んだ。
「その鳥はハトだよ。うまいだろ」と イェルム。
「まぁ、そうなの?ちょっとかわいそう」
そう言いながらも、ローザはすっかりご満悦だった。
「あしたはファールンに入るぞ」先生が、ビールの泡の口で宣言する。
「あそこはねウプサラ大学の教授の推薦状がないと入れないんですぜ、先生」
「そりゃ、お前が手はずを整えてもらわないと」
「わかってます。ちゃんとせしめてありますよ。ヤンセン先生の推薦状をもらってます」
「うむ」
その日は、大学の学生寮の空き部屋に三人は泊めてもらうことになっていた。
(つづく)