中学生たちに数学を教えていると、ふと私もこんなころがあったのだと時間旅行してしまう
もっとも周囲の環境は私がそうだったころ、つまり1975年ごろとは全く異なるのだが
そんな中で、ユークリッド幾何学は色あせないものだとつくづく思う
それだけではない
数学は色あせないものだ
最近、幾何学に触発されてヒルベルトの「幾何学基礎論」を入手した
中村幸四郎博士(故人)の訳で、ちくま学芸文庫から出版されているものだ
ヒルベルトはドイツの数学者で、その方面では知らない人はいないが、この著作は彼が37歳にして初めて著した大著なのだ
ユークリッドの「原論」は、噂によると世界で聖書の次に読まれている本だという
その「原論」をヒルベルトが改めてまとめたものが「幾何学基礎論」なのであるらしい
「公理」という数学の基本を、きわめて詳しく述べた本である
「公理」から「定理」が導かれるのだと思ってもらっていい
「公理」は、あえて証明しなくても「真」であると言えるほどの明らかなものだということだ
ただ証明できないということではない
三角形の内角の和が2直角(180°)というのは「定理」である
これは証明できるし、証明なしに議論を進めることはよろしくない
ただし、入学試験などでいちいち証明してから本定理を使うというのもおかしな話だ
小学生でも知っている定理だからだ
実は「定理」と「公理」の違いなどあいまいなもので、「自明」とかいう言葉で「公理」は使われるので、初等幾何学における「定理」と名の付く性質は、証明せずとも「~の定理」とか、「三角形の内角の和」というふうに短い根拠を述べるにとどめてよいのである
三角形の合同条件も然りで、「三辺相等」などとかっこ書きで添えておけば足りる
余計なことだが、「三平方の定理」を「ピタゴラスの定理」としてしまうのは常識的にはアリだが、ピタゴラス以前から「三平方の定理」は知られていて、別にピタゴラスが発見したわけでもないから、単に「三平方の定理」と書くのが望ましいのではあるまいか?
ある種の直角三角形を「ピタゴラス三角形」といい、そのような三辺の整数の組み合わせを「ピタゴラス数」と呼ぶのは、まあ許せると思うのだが
さて、中学生が高校入試に挑むとなると、公立高校でも幾何学は外せないし、なかなか凝った問題が出るようだ
勉強嫌いの彼らには、そんな問題は「捨て問」として、点数がとれる式の整理や因数分解、二次関数に賭けろと教えている
しかし、得意な子は幾何学を面白がるもので、ある種の「発見」が糸口となって解けていくのが勉強につながっていくようだ
もちろん少数派だが
最初からできる子は、うちの「学び舎」には来ない
家庭に問題を抱える子供たちがやっとこさ、居場所を求めてくるのである
育ちがすでに恵まれていない
そんな子たちが、健全に勉学に励むはずがないのである
ほんとはね、学ぶ楽しさを教えたい
あたしだって、もとから勉強好きではなかったけれど、好奇心は旺盛だった
父母もそんなあたしに協力的だった
だから、今がある
でもあの子たちは、親から見放され、さげすまれ、性的虐待までも受けて、人として扱われていない
そのうえ、世間からは差別されている
数学は万人に平等だが、受け取る人は限られているのだ
数学を面白いと思う子どもの数は、世界と比べたとき、日本人は先進国の中ではずいぶん下の方であるらしい
日本の生徒にとって数学は無味乾燥で、冷徹で、容赦ない(点数)ものだというのだ
自尊心はへし折られ、数学など早く社会に出て忘れたいものなのだろう
ところが、大学側は文系でも数学の必要性を説き、入試に課す大学(慶応や早稲田など)も出てくるらしい
地頭の良さとか、問題解決力を試すにはもってこいの数学の試験である
少子化でも志望する生徒が多い有名文系大学は、量より質を学生に求めだしたのだ
だから義務教育の段階で数学嫌いにしないように指導法を改めなければならないと思う
youtubeで私塾の先生の動画を視聴すると、学校の先生よりもクールで面白く教えている
世の先生方は、参考になさるとよい
できる人ができる子に教える方法と、できる人ができない子に教える方法は明らかに違う
また、できる人はできない子の気持ちがわからないことが多い
できない人、私のように数学に苦労し、理系の大学に進んだ人こそ、できない子に寄り添うことができるのではないかと、私自身が思っている
私は生徒の前でどうどうと間違い、その間違いをもとにいっしょに解くのだ。
間違いをそのままにしない。
間違ってもいいから、どこで、なぜそうしてしまったのかを分析することを教えるのである
単なる不注意もあるし、根本的に間違っている場合もある
さらに、どこから手を付けていいのかわからないとか、問題文が読めないという困難もあろう
見通しの立たない問題ほど困惑するものはない
見通しを立てられるようにするには、多くの問題に当たることが大切なのだ。
挫折の多かった私なら、その経験を語ることはできるだろう
もっとも周囲の環境は私がそうだったころ、つまり1975年ごろとは全く異なるのだが
そんな中で、ユークリッド幾何学は色あせないものだとつくづく思う
それだけではない
数学は色あせないものだ
最近、幾何学に触発されてヒルベルトの「幾何学基礎論」を入手した
中村幸四郎博士(故人)の訳で、ちくま学芸文庫から出版されているものだ
ヒルベルトはドイツの数学者で、その方面では知らない人はいないが、この著作は彼が37歳にして初めて著した大著なのだ
ユークリッドの「原論」は、噂によると世界で聖書の次に読まれている本だという
その「原論」をヒルベルトが改めてまとめたものが「幾何学基礎論」なのであるらしい
「公理」という数学の基本を、きわめて詳しく述べた本である
「公理」から「定理」が導かれるのだと思ってもらっていい
「公理」は、あえて証明しなくても「真」であると言えるほどの明らかなものだということだ
ただ証明できないということではない
三角形の内角の和が2直角(180°)というのは「定理」である
これは証明できるし、証明なしに議論を進めることはよろしくない
ただし、入学試験などでいちいち証明してから本定理を使うというのもおかしな話だ
小学生でも知っている定理だからだ
実は「定理」と「公理」の違いなどあいまいなもので、「自明」とかいう言葉で「公理」は使われるので、初等幾何学における「定理」と名の付く性質は、証明せずとも「~の定理」とか、「三角形の内角の和」というふうに短い根拠を述べるにとどめてよいのである
三角形の合同条件も然りで、「三辺相等」などとかっこ書きで添えておけば足りる
余計なことだが、「三平方の定理」を「ピタゴラスの定理」としてしまうのは常識的にはアリだが、ピタゴラス以前から「三平方の定理」は知られていて、別にピタゴラスが発見したわけでもないから、単に「三平方の定理」と書くのが望ましいのではあるまいか?
ある種の直角三角形を「ピタゴラス三角形」といい、そのような三辺の整数の組み合わせを「ピタゴラス数」と呼ぶのは、まあ許せると思うのだが
さて、中学生が高校入試に挑むとなると、公立高校でも幾何学は外せないし、なかなか凝った問題が出るようだ
勉強嫌いの彼らには、そんな問題は「捨て問」として、点数がとれる式の整理や因数分解、二次関数に賭けろと教えている
しかし、得意な子は幾何学を面白がるもので、ある種の「発見」が糸口となって解けていくのが勉強につながっていくようだ
もちろん少数派だが
最初からできる子は、うちの「学び舎」には来ない
家庭に問題を抱える子供たちがやっとこさ、居場所を求めてくるのである
育ちがすでに恵まれていない
そんな子たちが、健全に勉学に励むはずがないのである
ほんとはね、学ぶ楽しさを教えたい
あたしだって、もとから勉強好きではなかったけれど、好奇心は旺盛だった
父母もそんなあたしに協力的だった
だから、今がある
でもあの子たちは、親から見放され、さげすまれ、性的虐待までも受けて、人として扱われていない
そのうえ、世間からは差別されている
数学は万人に平等だが、受け取る人は限られているのだ
数学を面白いと思う子どもの数は、世界と比べたとき、日本人は先進国の中ではずいぶん下の方であるらしい
日本の生徒にとって数学は無味乾燥で、冷徹で、容赦ない(点数)ものだというのだ
自尊心はへし折られ、数学など早く社会に出て忘れたいものなのだろう
ところが、大学側は文系でも数学の必要性を説き、入試に課す大学(慶応や早稲田など)も出てくるらしい
地頭の良さとか、問題解決力を試すにはもってこいの数学の試験である
少子化でも志望する生徒が多い有名文系大学は、量より質を学生に求めだしたのだ
だから義務教育の段階で数学嫌いにしないように指導法を改めなければならないと思う
youtubeで私塾の先生の動画を視聴すると、学校の先生よりもクールで面白く教えている
世の先生方は、参考になさるとよい
できる人ができる子に教える方法と、できる人ができない子に教える方法は明らかに違う
また、できる人はできない子の気持ちがわからないことが多い
できない人、私のように数学に苦労し、理系の大学に進んだ人こそ、できない子に寄り添うことができるのではないかと、私自身が思っている
私は生徒の前でどうどうと間違い、その間違いをもとにいっしょに解くのだ。
間違いをそのままにしない。
間違ってもいいから、どこで、なぜそうしてしまったのかを分析することを教えるのである
単なる不注意もあるし、根本的に間違っている場合もある
さらに、どこから手を付けていいのかわからないとか、問題文が読めないという困難もあろう
見通しの立たない問題ほど困惑するものはない
見通しを立てられるようにするには、多くの問題に当たることが大切なのだ。
挫折の多かった私なら、その経験を語ることはできるだろう