日本は学歴社会だ
それは、周りを見てもそうだといえる
でも、やる気のない子どもたちを教えていて、そんなに勉強が嫌いならせんでもいいとも思う
親が子供に「大学くらいは出てほしい」と思う気持ちもわかるけれど、勉強嫌いのご本人には苦痛なだけだ
そんなに高卒が不利益とも思わないが、この不穏な世の中で将来を危ぶむ親心も理解してやるべきか?
自己責任論を振りかざすのはよろしくないけれども、ある程度は自分も将来に責任を持ってほしい
経済的理由、親ガチャなど本人に責任のないことはもちろん考慮しても、自己決定権に対しては自己責任を負うべきなのがあたしの持論である
Fランクなんて揶揄されるような無名の大学を志望して入ったのか、そこしか入れなかったのか、いずれにしても、そんな「大卒資格」など社会はほぼ認めない
そんなところでもいいからと入学するのは、とても時間の無駄だし、自己嫌悪に陥らないか心配である
やがて世間の荒波にもまれて、自信を無くすに相違ない
学問は必要な人がするもので、必要ないとその人が思うのなら、やらんほうがいい
なんでもそうだが、主体性のない行動は何も生まないし、心を病んでしまう
学歴社会はよろしくない。あたしもそう思う
しかし、学歴社会は厳然と昔からあって、ひとつの文化を形成してしまっている
ならばその社会に自分を合わせるほかない
そう思うのなら、せめて名の知れた大学に行き、やりたいことをみつけるぐらいになってほしい
いっぽうで、社会におもねる気はないと思うのなら、大学進学などうっちゃって、もっと楽しくいきたらどうだ?
格差や差別もそうなのだ
被差別者はまことに気の毒である
いわれのない差別を受けて、生きづらくなっている
しかし、格差も差別も厳然と昔からある
これは文化と言うと語弊を伴うけれど、現象だと言うべきか
人間が生きていくうえで、他人との比較で自己を満足させるという本能的なものがDNAに刷り込まれているのではないかとあたしなどは思ってしまう
それほど、格差も差別も無くなりそうになっても古傷のうずきのように再発してくる
子どものない者は、子だくさんを揶揄し、子どものあるものは、子なしを憐れむ
金持ちは、貧乏人を、中間層は生活保護者を蔑む
男は女の前で威張り、女は、女同士でいがみあう
子どもや若い人たちは、ルッキズムでいじめたり、いじめられたりしている
そうして自殺者は増える一方であった
つまるところ欲なのである
ささやかな欲望もあるし、強欲もある
欲望を満たすことで人は生きていけるのだけれど、必ずしも欲望は簡単に満たされない
すると代替行動として、SNSへの書き込み、いじめ、いやがらせで欲望を埋め合わせる
もともと代替であるから満たされるはずがない
人はその行動をエスカレートさせていく
つまらん欲は捨てたほうがいいと仏教では教える
断捨離とはそもそもそういうものだ
物欲にだけ断捨離をするのでは本当の欲を捨てたことにはならない
捨てたものをまた欲しがるようになる
成仏したら無欲になる
仏の世界には欲が原動力の「経済」や「色情」がない
生きることを超越した死を経ているからだ
もっと言えば、欲しがる肉体がないのである
肉体がなければ美しくなりたいとか、健康になりたいとか、思わないだろう
かくも美しい仏の世界
それが浄土である
嫉妬や欲望のない世界
夢や希望もないけれど、たゆたうような幸せの世界は、とても楽しいと釈尊は説いた
時間も存在しない(あまりにも長い時間=永遠のように表現される)
時間がとまっているのか流れているのか、そんな概念がもうないのである
齷齪(あくせく)は遊びの無い、余裕のない様を表した言葉だが、仏の世界にはそういったことがまったくないのである
締め切りや期限が存在しないし、それを守る欲がないからだ
なにをするでもなく、させられることもない
欲がない自分を想像できればそれが仏の世界に近いものだろう
涅槃
それは場所だろうか?心の状態だろうか?
仏の世界には広さも、長さも、重さもない
座標で示せる次元がそもそもない
色(しき:物質)世界とはまったくことなる空(くう)の世界だ(と思われる)
あたしは生きているが、死に向かって生きている
死を境に、むこうに新たな世界があるのかどうかもわからない
ただ死ぬまで生きる努力はする
生きているから欲もある
食える限り生きてやる
断捨離するつもりもない
なにしろ、浄土真宗では死ねばなんの努力をしなくても浄土に成仏させてもらえると教えるのだから
それは、周りを見てもそうだといえる
でも、やる気のない子どもたちを教えていて、そんなに勉強が嫌いならせんでもいいとも思う
親が子供に「大学くらいは出てほしい」と思う気持ちもわかるけれど、勉強嫌いのご本人には苦痛なだけだ
そんなに高卒が不利益とも思わないが、この不穏な世の中で将来を危ぶむ親心も理解してやるべきか?
自己責任論を振りかざすのはよろしくないけれども、ある程度は自分も将来に責任を持ってほしい
経済的理由、親ガチャなど本人に責任のないことはもちろん考慮しても、自己決定権に対しては自己責任を負うべきなのがあたしの持論である
Fランクなんて揶揄されるような無名の大学を志望して入ったのか、そこしか入れなかったのか、いずれにしても、そんな「大卒資格」など社会はほぼ認めない
そんなところでもいいからと入学するのは、とても時間の無駄だし、自己嫌悪に陥らないか心配である
やがて世間の荒波にもまれて、自信を無くすに相違ない
学問は必要な人がするもので、必要ないとその人が思うのなら、やらんほうがいい
なんでもそうだが、主体性のない行動は何も生まないし、心を病んでしまう
学歴社会はよろしくない。あたしもそう思う
しかし、学歴社会は厳然と昔からあって、ひとつの文化を形成してしまっている
ならばその社会に自分を合わせるほかない
そう思うのなら、せめて名の知れた大学に行き、やりたいことをみつけるぐらいになってほしい
いっぽうで、社会におもねる気はないと思うのなら、大学進学などうっちゃって、もっと楽しくいきたらどうだ?
格差や差別もそうなのだ
被差別者はまことに気の毒である
いわれのない差別を受けて、生きづらくなっている
しかし、格差も差別も厳然と昔からある
これは文化と言うと語弊を伴うけれど、現象だと言うべきか
人間が生きていくうえで、他人との比較で自己を満足させるという本能的なものがDNAに刷り込まれているのではないかとあたしなどは思ってしまう
それほど、格差も差別も無くなりそうになっても古傷のうずきのように再発してくる
子どものない者は、子だくさんを揶揄し、子どものあるものは、子なしを憐れむ
金持ちは、貧乏人を、中間層は生活保護者を蔑む
男は女の前で威張り、女は、女同士でいがみあう
子どもや若い人たちは、ルッキズムでいじめたり、いじめられたりしている
そうして自殺者は増える一方であった
つまるところ欲なのである
ささやかな欲望もあるし、強欲もある
欲望を満たすことで人は生きていけるのだけれど、必ずしも欲望は簡単に満たされない
すると代替行動として、SNSへの書き込み、いじめ、いやがらせで欲望を埋め合わせる
もともと代替であるから満たされるはずがない
人はその行動をエスカレートさせていく
つまらん欲は捨てたほうがいいと仏教では教える
断捨離とはそもそもそういうものだ
物欲にだけ断捨離をするのでは本当の欲を捨てたことにはならない
捨てたものをまた欲しがるようになる
成仏したら無欲になる
仏の世界には欲が原動力の「経済」や「色情」がない
生きることを超越した死を経ているからだ
もっと言えば、欲しがる肉体がないのである
肉体がなければ美しくなりたいとか、健康になりたいとか、思わないだろう
かくも美しい仏の世界
それが浄土である
嫉妬や欲望のない世界
夢や希望もないけれど、たゆたうような幸せの世界は、とても楽しいと釈尊は説いた
時間も存在しない(あまりにも長い時間=永遠のように表現される)
時間がとまっているのか流れているのか、そんな概念がもうないのである
齷齪(あくせく)は遊びの無い、余裕のない様を表した言葉だが、仏の世界にはそういったことがまったくないのである
締め切りや期限が存在しないし、それを守る欲がないからだ
なにをするでもなく、させられることもない
欲がない自分を想像できればそれが仏の世界に近いものだろう
涅槃
それは場所だろうか?心の状態だろうか?
仏の世界には広さも、長さも、重さもない
座標で示せる次元がそもそもない
色(しき:物質)世界とはまったくことなる空(くう)の世界だ(と思われる)
あたしは生きているが、死に向かって生きている
死を境に、むこうに新たな世界があるのかどうかもわからない
ただ死ぬまで生きる努力はする
生きているから欲もある
食える限り生きてやる
断捨離するつもりもない
なにしろ、浄土真宗では死ねばなんの努力をしなくても浄土に成仏させてもらえると教えるのだから