鶏口となれども牛後となるなかれ

この故事は、中学生のころ国語で習った。

人生五十年を過ぎると、この言葉の意味も変わってくる。
というか、あたしは「牛後」の人なんだなと思うわけである。

世間を見渡すと、「鶏口派」と「牛後派」に二分されるような気がする。
人の上に立つ人、起業する人、自分で何かをして生計を立てる人は、これすなわち「鶏口」の人だ。
反対に、企業の社畜として働く人、平穏無事に過ごしたい人、人の前に出ない人は「牛後」の人だ。

というわけで、あたしは「牛後」の人なのである。

あたしだって、士業で一花咲かせたいなんて思って懸命に(?)お勉強したこともあった。
花は咲くどころか芽も出ないまま終わってしまったけれど。

しかしである、もし晴れて、そういう資格を得て、いざ事務所を構えるということを想像して欲しい。
あたしには、顧客開拓とか、そういったスキルが皆無だった。
「お仕事下さい」の一言が言えない。
豆腐屋にしろ、魚屋にしろ、客あっての商売だからだ。
もっとも親がそういう商売で、あたしが後を継ぐというのなら、やれぬことはないかもしれない。
一から興すことが、あたしにはできないと思う。

ウェブデザイナーとか、イラストレーターとか横文字のお仕事にしてもそうだ。
あたしがそういう技術なりを持っていたとして、どうして売り込めようか・・・
はたとそこで止まるのである。
「あたしはどっかの会社でお茶を汲んで、言われた仕事をしてというのが合っているというか、それしかできんではないか」と思うのである。
だから、あたしは「牛後の人」だと言える。

牛後は安泰だ、牛に揺られて暮らせば良い。
しかし、牛が斃死することもあるし、振り落とされることもあるかも知れない。
※牛後は「尻」のことらしいから、振り落とされるのはおかしいか?

あたしだって「鶏口」になりたいわ。
と、思わなくもないが、もはや、体の動かぬ夫を抱えて、そういう馬鹿げたことを言うのは憚られる。

なるほど、あたしがこの世でブログというものを与えられて、好き勝手に書き散らすことは、一応許されているらしい。

地球という星が存在するのは、相当な奇跡だと学者は言う。
そして、その星の表面で人類が進化して文明を築いたのは、もっと奇跡かもしれない。
さすれば、その末席を汚す「なおぼん」は、やはり奇跡の産物に違いない。

もはやどうでもいいことであるけれど。