昨日は2・26事件が起こった日でした。
鈴木は、終戦処理を行なった内閣総理としては有名ですが、かつて2・26事件で凶弾に撃たれたことはあまり知られていません。
彼は、「俺の体にはあの時の弾が、まだ残っとるんじゃ」と豪語していたとか。
今一度、昭和二十年(1945年)の日本に目を向けてみましょう。
7月27日に発せられたポツダム宣言を、日本が無条件に受諾して降伏せよと連合国から迫られていました。
米内海軍大臣から「(宣言を)無視したらどうか」と打診されていた鈴木が、その後の記者会見で「受諾するのか」の質問に「ノーコメント」と答え、新聞は「(宣言を)黙殺」と書きたてたもんだから、アメリカ政府も日本政府の「戦争継続の意思固し」とみて、やむなく(?)広島と長崎に原爆投下を命じたと伝えられてます。
鈴木の「ノーコメント」発言は、ポツダム宣言に対して「受諾するかどうか留保する」意味で「今は何も言えない」という意味だったんだと後日語られました。
もしそうなら、彼がはっきりものを言わなかったから広島・長崎の悲劇が起きたとも取れます。
当時、大統領だったトルーマンは彼の日記で「鈴木の発言と原爆投下の下命は無関係だ。原爆投下の時期はすでに決まっていたのだ」と書いています。
だとするなら、「黄色い猿」に原爆実験をしてみようという偏見が本心だと言えるんじゃないの?
そんなアメリカに今の日本は「飼い猫」のようになついて、見られたもんじゃないよね。
当時、東条英機らは政権から降りていたけれど、戦争継続の意志は固かった(継戦派)。
「竹やりで最後まで戦うんじゃ」と、本気で思っていた連中もたくさん軍部にはいたのね。
でも、鈴木首相は違ったんだ。
彼は、もはや、勝ち目は無いと悟っていたから、いつも「もっとも利口に終戦処理をすればよいか」を考えていたんだね。
もともと陸軍は継戦派が多く、海軍は一部を除き、山本五十六の時代から「この戦争は勝ち目が無い」と言っていたのはよく知られているわ。
だから話がややこしくなっていたの。
意地の張り合いで、引くに引けない。
海軍出身の鈴木は、それだから冷静に世の中を見られたんだと思うわ。
御前会議で天皇陛下は鈴木の話を聞き、涙ながらに聖断を下されたわ。
八月十五日は朝から大変な騒ぎよ。
鈴木貫太郎は内閣を辞し、彼の家は国粋主義者に襲撃された。
大臣や軍指導部の自殺者も出た。
正午、玉音放送が流れた・・・
映画「日本のいちばん長い日」を見た方はご存知の通りです。
今は亡き、笠智衆(りゅうちしゅう)が鈴木貫太郎を演じました。
遡って、昭和十一年の二月二十六日、どうして鈴木貫太郎は青年将校たちの凶弾に倒れたのだろう?
彼はその頃、天皇陛下の侍従長を拝命していた。
昭和天皇の信任も厚かった彼がである。
どうも、急進派青年将校たちは鈴木を天皇に近づく「奸臣」だと誤解したらしいのね。
陸軍皇道派の青年将校たちのスローガンは「昭和維新・尊皇討奸」でしたね。
だから、鈴木も同じ目で見られたのよ。
鈴木貫太郎は官邸で、将校たちに襲われ、何発も銃弾を浴びるわ。
もはや、夫の命はないものと、夫人も思ったでしょう。
「とどめは、やめてやってください。必要なら、あたしがいたしますから」と気丈にも言われたそうよ。
昔の奥様はすごいんだよ。
将校たちはそれに敬意を表して、「閣下にはなんの恨みもございません。日本国家の改造のためにやむなくこういうことをいたしました。成就の暁には、我々は自決する覚悟です」と述べ去っていったと。
幸い、貫太郎は死ななかった。
死ななかったから、今の日本があると言っていいわ。
先に述べた「終戦処理」の英断は、彼をして行なわれたのだから。
鈴木貫太郎が日本の敗色が濃くなってから首相に推され、拝命してしばらくすると、かの国、米国ではルーズベルト大統領が亡くなった。
日本はルーズベルトと戦っていたといっても過言じゃない。
鈴木はその訃報を聞いて「今日、アメリカがわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。我々もまたあなた方アメリカ国民の覇権主義に対し今まで以上に強く戦います」と短波放送を通じて弔慰を述べたんだって。
そりゃあ、物議を醸したわよ。
最後の一人になっても、本土が焦土と化しても、竹槍の尽きるまで、まだ戦うって軍部は言うてるんだもん。
でも鈴木貫太郎の人間性をよく表している談話だと思うわ。
※ウィキペディア「鈴木貫太郎」の項より抜粋。
鈴木首相は辞表を提出し、終戦処理内閣は八月十五日をもって幕を閉じました。
終戦から二年半ぐらいで、彼は癌で息を引き取ります。
「永遠の平和」と二度はっきり声に出して、旅立っていったということでした。
日本は今、岐路に立っています。
「永遠の平和」も「砂上の楼閣」となるやもしれません。
鈴木は、終戦処理を行なった内閣総理としては有名ですが、かつて2・26事件で凶弾に撃たれたことはあまり知られていません。
彼は、「俺の体にはあの時の弾が、まだ残っとるんじゃ」と豪語していたとか。
今一度、昭和二十年(1945年)の日本に目を向けてみましょう。
7月27日に発せられたポツダム宣言を、日本が無条件に受諾して降伏せよと連合国から迫られていました。
米内海軍大臣から「(宣言を)無視したらどうか」と打診されていた鈴木が、その後の記者会見で「受諾するのか」の質問に「ノーコメント」と答え、新聞は「(宣言を)黙殺」と書きたてたもんだから、アメリカ政府も日本政府の「戦争継続の意思固し」とみて、やむなく(?)広島と長崎に原爆投下を命じたと伝えられてます。
鈴木の「ノーコメント」発言は、ポツダム宣言に対して「受諾するかどうか留保する」意味で「今は何も言えない」という意味だったんだと後日語られました。
もしそうなら、彼がはっきりものを言わなかったから広島・長崎の悲劇が起きたとも取れます。
当時、大統領だったトルーマンは彼の日記で「鈴木の発言と原爆投下の下命は無関係だ。原爆投下の時期はすでに決まっていたのだ」と書いています。
だとするなら、「黄色い猿」に原爆実験をしてみようという偏見が本心だと言えるんじゃないの?
そんなアメリカに今の日本は「飼い猫」のようになついて、見られたもんじゃないよね。
当時、東条英機らは政権から降りていたけれど、戦争継続の意志は固かった(継戦派)。
「竹やりで最後まで戦うんじゃ」と、本気で思っていた連中もたくさん軍部にはいたのね。
でも、鈴木首相は違ったんだ。
彼は、もはや、勝ち目は無いと悟っていたから、いつも「もっとも利口に終戦処理をすればよいか」を考えていたんだね。
もともと陸軍は継戦派が多く、海軍は一部を除き、山本五十六の時代から「この戦争は勝ち目が無い」と言っていたのはよく知られているわ。
だから話がややこしくなっていたの。
意地の張り合いで、引くに引けない。
海軍出身の鈴木は、それだから冷静に世の中を見られたんだと思うわ。
御前会議で天皇陛下は鈴木の話を聞き、涙ながらに聖断を下されたわ。
八月十五日は朝から大変な騒ぎよ。
鈴木貫太郎は内閣を辞し、彼の家は国粋主義者に襲撃された。
大臣や軍指導部の自殺者も出た。
正午、玉音放送が流れた・・・
映画「日本のいちばん長い日」を見た方はご存知の通りです。
今は亡き、笠智衆(りゅうちしゅう)が鈴木貫太郎を演じました。
遡って、昭和十一年の二月二十六日、どうして鈴木貫太郎は青年将校たちの凶弾に倒れたのだろう?
彼はその頃、天皇陛下の侍従長を拝命していた。
昭和天皇の信任も厚かった彼がである。
どうも、急進派青年将校たちは鈴木を天皇に近づく「奸臣」だと誤解したらしいのね。
陸軍皇道派の青年将校たちのスローガンは「昭和維新・尊皇討奸」でしたね。
だから、鈴木も同じ目で見られたのよ。
鈴木貫太郎は官邸で、将校たちに襲われ、何発も銃弾を浴びるわ。
もはや、夫の命はないものと、夫人も思ったでしょう。
「とどめは、やめてやってください。必要なら、あたしがいたしますから」と気丈にも言われたそうよ。
昔の奥様はすごいんだよ。
将校たちはそれに敬意を表して、「閣下にはなんの恨みもございません。日本国家の改造のためにやむなくこういうことをいたしました。成就の暁には、我々は自決する覚悟です」と述べ去っていったと。
幸い、貫太郎は死ななかった。
死ななかったから、今の日本があると言っていいわ。
先に述べた「終戦処理」の英断は、彼をして行なわれたのだから。
鈴木貫太郎が日本の敗色が濃くなってから首相に推され、拝命してしばらくすると、かの国、米国ではルーズベルト大統領が亡くなった。
日本はルーズベルトと戦っていたといっても過言じゃない。
鈴木はその訃報を聞いて「今日、アメリカがわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。我々もまたあなた方アメリカ国民の覇権主義に対し今まで以上に強く戦います」と短波放送を通じて弔慰を述べたんだって。
そりゃあ、物議を醸したわよ。
最後の一人になっても、本土が焦土と化しても、竹槍の尽きるまで、まだ戦うって軍部は言うてるんだもん。
でも鈴木貫太郎の人間性をよく表している談話だと思うわ。
※ウィキペディア「鈴木貫太郎」の項より抜粋。
鈴木首相は辞表を提出し、終戦処理内閣は八月十五日をもって幕を閉じました。
終戦から二年半ぐらいで、彼は癌で息を引き取ります。
「永遠の平和」と二度はっきり声に出して、旅立っていったということでした。
日本は今、岐路に立っています。
「永遠の平和」も「砂上の楼閣」となるやもしれません。