軍縮条約反対派の南雲忠一(なぐもちゅういち)は、ことあるごとに山本五十六(いそろく)や井上成美(しげよし)と対立したといいます。
山本も軍縮条約には反対だったのに、なにやら別の不満があったのかしらね?
軍縮条約に反対する一派を「艦隊派」と呼び、「条約派」と対立していたのね。
当時の大日本帝国海軍はこのように二つの大きな派閥に分断されていました。
※この場合の「条約」とはロンドン(海軍)軍縮条約のことを指すのよ。
海軍省はおおむね、条約妥協の立場で進めており、軍令部に近い南雲ら「艦隊派」は無条件に海軍を増強して覇権を争う姿勢だったわ。
海軍省と軍令部の対立は、そのまま干犯(かんぱん)問題に発展しかねなかったのよ。
※干犯問題とは海軍の統帥権を争う問題を言います。
当時、山本五十六はロンドン軍縮会議に随行員として出席しており、条約締結には部下の山口多聞(たもん)とともに反対していたの。
一方で、南雲大佐も巡洋艦「高雄」の艦長を拝命していたけれど、条約脱退の署名を集めたりしていたわ。
1935年に、南雲は少将に昇進するのね。
南雲は酒が入ると気が大きくなるらしく、大言壮語も多々あったといいます。
軍令部第二課長のときに、伏見宮軍令部総長主催の園遊会で酔って池に放尿したというから、豪傑ね。
ところが、太平洋戦争に日本が突入し、南雲が意に沿わない「航空隊」の司令を拝命することになったころから、その豪放磊落な気質はどっかへ飛んで行ってしまったみたい。
まるで老人のように、不安がちな、もっと言えば臆病な物言いが増えてきたんだって。
まだ五十代の壮年なのに、心身ともに老け込んだようだった。
1941年四月に南雲は、第一航空隊司令長官という重責に、山本五十六連合艦隊司令長官から任じられました。
そもそも、小沢治三郎が候補だったのに、山本の鶴の一声で南雲に決まってしまったわけ。
こういった人事権は山本司令長官にはなかったのにも関わらずにね。
当時の海軍大臣及川古志郎(おいかわこしろう)に人事権があったとされるんだけど、山本の一存で決まってしまったのよ。
真珠湾作戦も山本の「ごね得」で成った「奇襲」ですし、そういったごたごたに巻き込まれた形の南雲忠一でした。
南雲は、艦隊派であり航空戦術にはもともと疎く、この人事を不服としていたけれど、山本のたっての願いで断れず航空隊の長官に任官したの。
彼の優柔不断な気質が出てしまったのかもしれない。
当然、山本も南雲の得手不得手は承知しており、航空参謀に草加龍之介少将、源田実中佐を付けることで十分補えると考えてのことだったんでしょう。
しかしハワイ作戦が現実のものとなってくると、南雲の不安はつのるばかりで、山本の博打的な戦略にますます懐疑的になります。
「こんな無茶な作戦が成功するわけがない。俺には無理だ」
そうつぶやくこともしばしばでした。
そんな中で、航空戦力の強化、真珠湾攻撃の戦術的な研究に注力しなければならない南雲長官でした。
南雲自身は、このたびの戦争は「南方作戦」こそ重大なミッションであり、勝敗を決するものと考えていたのにも関わらず、真珠湾攻撃という投機的作戦にいそしまなければならないことに、言いえない憤懣があったの。
南雲の人柄も変質してきたと言うわ。
はつらつとした青年士官のころとは打って変わって、右顧左眄(うこさべん)で、ともすれば優柔不断な態度は、重大な決定に精彩を欠き、司令官としてはとても及第点を与えられるものではなかったと後世の人は言います。
ハワイまでの道のりは、当時の連合艦隊にとって遠いものだった。
さらに択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に艦隊を終結させ、そのまま日付変更線に沿って南下し、ハワイを目指すという迂遠な道筋をたどる作戦であることから、燃料の問題は作戦の成否を左右したのね。
南雲は軍紀違反を承知で、規定以上の燃油を各艦に積ませて、ガス欠に備えたと伝えられています。
南雲長官は、真珠湾攻撃の不安を草加らに幾度となく吐露し、草加が長官を励ます一幕もあったといいます。
酒を飲めば大きなことも言う南雲だったけど、真珠湾攻撃の話となると、酒が醒めてしまうようでした。
かくして南雲機動部隊は一路ハワイを目指すのでした。
ご存知の通り、真珠湾の奇襲攻撃は成功裏に終わったわ。
第一波攻撃隊の華々しい戦績は、アメリカ太平洋艦隊の主力戦艦をことごとく撃沈させ、オアフ島に点在する航空基地も壊滅させたというものでした。
ただ、空母が一隻もその中に含まれていなかったことが懸念材料として残ったのは有名ですね。
当時、米空母は新鋭艦も含め、演習に湾外に出てしまっていたの。
第二波攻撃隊が出ていれば、帰ってきた空母艦隊を迎え撃つことは可能だったろうにね。
どうして南雲は第二波の攻撃命令を出さなかったのかしら?
山本五十六も「南雲はやらんだろう」とうそぶいていたといいます。
不可解な南雲長官の行動でした。
そして南雲機動部隊は作戦を終了し、帰途に就いたの。
一つ考えられるのは、帰りの燃油が底をつきかけていたことでしょうか?
それとも損害軽微のまま、航空戦力や艦隊を温存したかったのだろうか?
得体のしれない大国に戦争を、奇襲の形で挑んだわけですから、敵は怒り狂って追いかけてくるに違いないでしょう。
南雲がそれを恐れても無理はなかったと思うの。
ハワイ作戦ののち、南雲は南太平洋を回りニューギニアを経て、インド洋に出るまで、ラバウルやポートダーウィンを攻略し、ジャワの制海権を得て、オーストラリア軍やオランダ軍を蹴散らし、セイロン沖海戦を大勝します。
当時、ここまで連戦連勝の艦隊がいたでしょうか?
南雲艦隊は「無敵艦隊」の称号をほしいままにしたと言っていい。
この快進撃の結果、南雲忠一は慢心したと言われます。
それに、艦隊は度重なる戦闘で、疲弊していた事実もあった。
井上成美の第四艦隊が南太平洋は珊瑚海付近で苦戦していました。
そこに南雲艦隊の虎の子の空母を割いて派遣せよとの命令が下り、やむなく翔鶴と瑞鶴を派遣するの。
井上司令は艦隊を統べるには力が足りなかったと言われていました。
そして、いろんな不幸も重なり、翔鶴を大破させられ、多くの航空兵力を失うことになってしまったの。
このあとすぐに、悪夢のミッドウェー海戦に突入する南雲艦隊でした。
1942年6月、その戦いは始まります。
六月のミッドウェー海域は悪天候だった。
索敵は難航し、敵の様子は皆目わからない。
それでも、アメリカは日本の暗号を解読していたといいます。
また、最新鋭のレーダーを駆使して、日本の艦隊の動向を探っていたとも。
6月5日に南雲機動部隊はミッドウェー島の米軍基地を攻撃すべく爆撃隊を出動させました。
島はほとんど無人で、飛行場はあったけれど配備されている軍用機は少なかったようです。
そこを日本の海軍機がことごとく潰したのね。
南雲は敵空母の情報が欲しかったけれど、そういった情報は入ってこず、近辺に空母はいないものと信じてしまいました。
おそらくハワイにまだ停泊しているんだと楽観したんです。
希望的観測で事に当たる、南雲の悪い癖が出ていました。
これまでの慢心も手伝っていたのかもしれないわ。
「おれはツイているのだ…」
博打好きな山本とは好対照の南雲も、この時はそう思ったのかもしれない。
山本からミッドウェー島攻撃隊が帰ってくるまでに、米艦隊に雷撃を与えるために艦攻に雷装が命じられていました。
そこに、ミッドウェー隊が帰投中に「第二次攻撃の必要あり」と要請してきたのよ。
米艦隊はハワイにいるものと信じて疑わなかった南雲は、兵装未了の雷撃隊の半数を爆装に充ててミッドウェー島に再派遣し、残りは何もせずに置いておいて、来たるべき雷装命令に備えました。
重巡「利根」の水上偵察機から「敵艦隊見ゆ」の入電があり、南雲は驚愕しました。
慌てて、残りの艦攻に雷装を命じ、すでに爆装になっている機は雷装転換を命じたの。
燃料が尽きかけの帰投する機が近づくなか、航空甲板は開けておかねばならず、狭い格納庫での必死の兵装転換作業だったわ。
南雲艦隊の位置は無線傍受でアメリカの知るところとなり、米航空隊の攻撃にさらされることになります。
艦隊と利根艦載機の不用意な通信や、ミッドウェー攻撃隊との交信があったから。
山本長官もそれは覚悟していたみたい。
最初のアメリカ軍の雷撃隊の猛攻に、南雲の乗艦「赤城」は危機に瀕しますが、南雲の巧みな操艦で六本の魚雷を次々に回避させたのには、源田航空参謀も舌を巻いたといいます。
さすがに水雷戦術の神様と言われたほどの南雲長官でした。
速度の遅い大型空母「赤城」を自在に操る南雲の操艦術は長い艦長経験からくるものだったに相違ありません。
※彼の操艦は荒っぽいものだったのか、若いころに衝突やニアミスを繰り返し謹慎処分させられたこともあったらしいよ。
とはいえ、赤城も加賀も蒼龍も、空母は次々に甲板を破られ、舷を割られ、炎上し沈没の憂き目に会いました。
燃料の尽きた友軍機は海に落ちたり、航空甲板で身動きが取れなくなった機は海中に投棄されたり、そこを米軍機が群がるように、爆弾を浴びせてきます。
まさに航空甲板は修羅場と化します。
格納庫は兵装転換で爆弾や魚雷がそこかしこに散らばり、誘爆を起こします。
南雲は軽巡「長良」に命からがら逃げ移り、山口多聞少将はただ一艦残った空母「飛龍」に残りましたが、その飛龍も航行不能で沈むのを待つほかなく、駆逐艦「巻雲」に雷撃処分されることになります。
嗚呼、名将山口多聞少将は「飛龍」と運命を共にしたの。
この人のことはまた別の機会に書くわね。
惨敗のミッドウェー作戦の後、なぜか山本長官は南雲中将と草加少将の責任を追及しなかった。
当の山本でさえ、空母が次々に沈められているという最中(さなか)、はるか後方の「大和」で部下と将棋に夢中だったというしね。
山本と南雲はほんとうに対立していたのだろうか?
南雲はそうだったかもしれない。
山本は、後輩の南雲を可愛がっていた節があります。
米沢出身の南雲と、長岡出身の山本は馬が合ったのかもしれないわね。
盛岡出身の米内光正と山本が懇意だったのも同じ北国の出身だからだとは、いささかうがちすぎでしょうか?
ミッドウェー後の南雲艦隊のありさまは、「無敵艦隊」のころとは真逆の連敗だったわ。
もはや、日本の太平洋における制海権は失われ、ガダルカナルは撤退し、山本はブーゲンヴィルに散り(海軍甲事件)、後を継いだ古賀峯一連合艦隊司令長官も飛行艇に乗ったまま行方不明(海軍乙事件)の後、豊田副武(そえむ)が司令長官に推されるも、豊田が拒否し、仕方なく南雲は残った連合艦隊を率いて中部太平洋方面艦隊司令長官としてサイパンにあったわ。
小沢治三郎率いる機動部隊がマリアナ沖海戦に敗れ、サイパンは米軍上陸の危機に瀕していました。
かくしてサイパンは激戦の後、累々たる屍の山を築き、バンザイ岬からは兵が次々と身を躍らせ、南雲は皇居に向かって腹を割いて果てたといいます。
五十七歳だったわ。
もし永らえていてもA級戦犯になる男。
しかし、彼なりによく頑張ったと思いますよ。
優柔不断は、時にはたくさんの命を無駄にする「忌むべき性格」であるということを彼は、学ばせてくれました。
山本も軍縮条約には反対だったのに、なにやら別の不満があったのかしらね?
軍縮条約に反対する一派を「艦隊派」と呼び、「条約派」と対立していたのね。
当時の大日本帝国海軍はこのように二つの大きな派閥に分断されていました。
※この場合の「条約」とはロンドン(海軍)軍縮条約のことを指すのよ。
海軍省はおおむね、条約妥協の立場で進めており、軍令部に近い南雲ら「艦隊派」は無条件に海軍を増強して覇権を争う姿勢だったわ。
海軍省と軍令部の対立は、そのまま干犯(かんぱん)問題に発展しかねなかったのよ。
※干犯問題とは海軍の統帥権を争う問題を言います。
当時、山本五十六はロンドン軍縮会議に随行員として出席しており、条約締結には部下の山口多聞(たもん)とともに反対していたの。
一方で、南雲大佐も巡洋艦「高雄」の艦長を拝命していたけれど、条約脱退の署名を集めたりしていたわ。
1935年に、南雲は少将に昇進するのね。
南雲は酒が入ると気が大きくなるらしく、大言壮語も多々あったといいます。
軍令部第二課長のときに、伏見宮軍令部総長主催の園遊会で酔って池に放尿したというから、豪傑ね。
ところが、太平洋戦争に日本が突入し、南雲が意に沿わない「航空隊」の司令を拝命することになったころから、その豪放磊落な気質はどっかへ飛んで行ってしまったみたい。
まるで老人のように、不安がちな、もっと言えば臆病な物言いが増えてきたんだって。
まだ五十代の壮年なのに、心身ともに老け込んだようだった。
1941年四月に南雲は、第一航空隊司令長官という重責に、山本五十六連合艦隊司令長官から任じられました。
そもそも、小沢治三郎が候補だったのに、山本の鶴の一声で南雲に決まってしまったわけ。
こういった人事権は山本司令長官にはなかったのにも関わらずにね。
当時の海軍大臣及川古志郎(おいかわこしろう)に人事権があったとされるんだけど、山本の一存で決まってしまったのよ。
真珠湾作戦も山本の「ごね得」で成った「奇襲」ですし、そういったごたごたに巻き込まれた形の南雲忠一でした。
南雲は、艦隊派であり航空戦術にはもともと疎く、この人事を不服としていたけれど、山本のたっての願いで断れず航空隊の長官に任官したの。
彼の優柔不断な気質が出てしまったのかもしれない。
当然、山本も南雲の得手不得手は承知しており、航空参謀に草加龍之介少将、源田実中佐を付けることで十分補えると考えてのことだったんでしょう。
しかしハワイ作戦が現実のものとなってくると、南雲の不安はつのるばかりで、山本の博打的な戦略にますます懐疑的になります。
「こんな無茶な作戦が成功するわけがない。俺には無理だ」
そうつぶやくこともしばしばでした。
そんな中で、航空戦力の強化、真珠湾攻撃の戦術的な研究に注力しなければならない南雲長官でした。
南雲自身は、このたびの戦争は「南方作戦」こそ重大なミッションであり、勝敗を決するものと考えていたのにも関わらず、真珠湾攻撃という投機的作戦にいそしまなければならないことに、言いえない憤懣があったの。
南雲の人柄も変質してきたと言うわ。
はつらつとした青年士官のころとは打って変わって、右顧左眄(うこさべん)で、ともすれば優柔不断な態度は、重大な決定に精彩を欠き、司令官としてはとても及第点を与えられるものではなかったと後世の人は言います。
ハワイまでの道のりは、当時の連合艦隊にとって遠いものだった。
さらに択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に艦隊を終結させ、そのまま日付変更線に沿って南下し、ハワイを目指すという迂遠な道筋をたどる作戦であることから、燃料の問題は作戦の成否を左右したのね。
南雲は軍紀違反を承知で、規定以上の燃油を各艦に積ませて、ガス欠に備えたと伝えられています。
南雲長官は、真珠湾攻撃の不安を草加らに幾度となく吐露し、草加が長官を励ます一幕もあったといいます。
酒を飲めば大きなことも言う南雲だったけど、真珠湾攻撃の話となると、酒が醒めてしまうようでした。
かくして南雲機動部隊は一路ハワイを目指すのでした。
ご存知の通り、真珠湾の奇襲攻撃は成功裏に終わったわ。
第一波攻撃隊の華々しい戦績は、アメリカ太平洋艦隊の主力戦艦をことごとく撃沈させ、オアフ島に点在する航空基地も壊滅させたというものでした。
ただ、空母が一隻もその中に含まれていなかったことが懸念材料として残ったのは有名ですね。
当時、米空母は新鋭艦も含め、演習に湾外に出てしまっていたの。
第二波攻撃隊が出ていれば、帰ってきた空母艦隊を迎え撃つことは可能だったろうにね。
どうして南雲は第二波の攻撃命令を出さなかったのかしら?
山本五十六も「南雲はやらんだろう」とうそぶいていたといいます。
不可解な南雲長官の行動でした。
そして南雲機動部隊は作戦を終了し、帰途に就いたの。
一つ考えられるのは、帰りの燃油が底をつきかけていたことでしょうか?
それとも損害軽微のまま、航空戦力や艦隊を温存したかったのだろうか?
得体のしれない大国に戦争を、奇襲の形で挑んだわけですから、敵は怒り狂って追いかけてくるに違いないでしょう。
南雲がそれを恐れても無理はなかったと思うの。
ハワイ作戦ののち、南雲は南太平洋を回りニューギニアを経て、インド洋に出るまで、ラバウルやポートダーウィンを攻略し、ジャワの制海権を得て、オーストラリア軍やオランダ軍を蹴散らし、セイロン沖海戦を大勝します。
当時、ここまで連戦連勝の艦隊がいたでしょうか?
南雲艦隊は「無敵艦隊」の称号をほしいままにしたと言っていい。
この快進撃の結果、南雲忠一は慢心したと言われます。
それに、艦隊は度重なる戦闘で、疲弊していた事実もあった。
井上成美の第四艦隊が南太平洋は珊瑚海付近で苦戦していました。
そこに南雲艦隊の虎の子の空母を割いて派遣せよとの命令が下り、やむなく翔鶴と瑞鶴を派遣するの。
井上司令は艦隊を統べるには力が足りなかったと言われていました。
そして、いろんな不幸も重なり、翔鶴を大破させられ、多くの航空兵力を失うことになってしまったの。
このあとすぐに、悪夢のミッドウェー海戦に突入する南雲艦隊でした。
1942年6月、その戦いは始まります。
六月のミッドウェー海域は悪天候だった。
索敵は難航し、敵の様子は皆目わからない。
それでも、アメリカは日本の暗号を解読していたといいます。
また、最新鋭のレーダーを駆使して、日本の艦隊の動向を探っていたとも。
6月5日に南雲機動部隊はミッドウェー島の米軍基地を攻撃すべく爆撃隊を出動させました。
島はほとんど無人で、飛行場はあったけれど配備されている軍用機は少なかったようです。
そこを日本の海軍機がことごとく潰したのね。
南雲は敵空母の情報が欲しかったけれど、そういった情報は入ってこず、近辺に空母はいないものと信じてしまいました。
おそらくハワイにまだ停泊しているんだと楽観したんです。
希望的観測で事に当たる、南雲の悪い癖が出ていました。
これまでの慢心も手伝っていたのかもしれないわ。
「おれはツイているのだ…」
博打好きな山本とは好対照の南雲も、この時はそう思ったのかもしれない。
山本からミッドウェー島攻撃隊が帰ってくるまでに、米艦隊に雷撃を与えるために艦攻に雷装が命じられていました。
そこに、ミッドウェー隊が帰投中に「第二次攻撃の必要あり」と要請してきたのよ。
米艦隊はハワイにいるものと信じて疑わなかった南雲は、兵装未了の雷撃隊の半数を爆装に充ててミッドウェー島に再派遣し、残りは何もせずに置いておいて、来たるべき雷装命令に備えました。
重巡「利根」の水上偵察機から「敵艦隊見ゆ」の入電があり、南雲は驚愕しました。
慌てて、残りの艦攻に雷装を命じ、すでに爆装になっている機は雷装転換を命じたの。
燃料が尽きかけの帰投する機が近づくなか、航空甲板は開けておかねばならず、狭い格納庫での必死の兵装転換作業だったわ。
南雲艦隊の位置は無線傍受でアメリカの知るところとなり、米航空隊の攻撃にさらされることになります。
艦隊と利根艦載機の不用意な通信や、ミッドウェー攻撃隊との交信があったから。
山本長官もそれは覚悟していたみたい。
最初のアメリカ軍の雷撃隊の猛攻に、南雲の乗艦「赤城」は危機に瀕しますが、南雲の巧みな操艦で六本の魚雷を次々に回避させたのには、源田航空参謀も舌を巻いたといいます。
さすがに水雷戦術の神様と言われたほどの南雲長官でした。
速度の遅い大型空母「赤城」を自在に操る南雲の操艦術は長い艦長経験からくるものだったに相違ありません。
※彼の操艦は荒っぽいものだったのか、若いころに衝突やニアミスを繰り返し謹慎処分させられたこともあったらしいよ。
とはいえ、赤城も加賀も蒼龍も、空母は次々に甲板を破られ、舷を割られ、炎上し沈没の憂き目に会いました。
燃料の尽きた友軍機は海に落ちたり、航空甲板で身動きが取れなくなった機は海中に投棄されたり、そこを米軍機が群がるように、爆弾を浴びせてきます。
まさに航空甲板は修羅場と化します。
格納庫は兵装転換で爆弾や魚雷がそこかしこに散らばり、誘爆を起こします。
南雲は軽巡「長良」に命からがら逃げ移り、山口多聞少将はただ一艦残った空母「飛龍」に残りましたが、その飛龍も航行不能で沈むのを待つほかなく、駆逐艦「巻雲」に雷撃処分されることになります。
嗚呼、名将山口多聞少将は「飛龍」と運命を共にしたの。
この人のことはまた別の機会に書くわね。
惨敗のミッドウェー作戦の後、なぜか山本長官は南雲中将と草加少将の責任を追及しなかった。
当の山本でさえ、空母が次々に沈められているという最中(さなか)、はるか後方の「大和」で部下と将棋に夢中だったというしね。
山本と南雲はほんとうに対立していたのだろうか?
南雲はそうだったかもしれない。
山本は、後輩の南雲を可愛がっていた節があります。
米沢出身の南雲と、長岡出身の山本は馬が合ったのかもしれないわね。
盛岡出身の米内光正と山本が懇意だったのも同じ北国の出身だからだとは、いささかうがちすぎでしょうか?
ミッドウェー後の南雲艦隊のありさまは、「無敵艦隊」のころとは真逆の連敗だったわ。
もはや、日本の太平洋における制海権は失われ、ガダルカナルは撤退し、山本はブーゲンヴィルに散り(海軍甲事件)、後を継いだ古賀峯一連合艦隊司令長官も飛行艇に乗ったまま行方不明(海軍乙事件)の後、豊田副武(そえむ)が司令長官に推されるも、豊田が拒否し、仕方なく南雲は残った連合艦隊を率いて中部太平洋方面艦隊司令長官としてサイパンにあったわ。
小沢治三郎率いる機動部隊がマリアナ沖海戦に敗れ、サイパンは米軍上陸の危機に瀕していました。
かくしてサイパンは激戦の後、累々たる屍の山を築き、バンザイ岬からは兵が次々と身を躍らせ、南雲は皇居に向かって腹を割いて果てたといいます。
五十七歳だったわ。
もし永らえていてもA級戦犯になる男。
しかし、彼なりによく頑張ったと思いますよ。
優柔不断は、時にはたくさんの命を無駄にする「忌むべき性格」であるということを彼は、学ばせてくれました。