日本の陸軍の軍用機に「キ」という記号がつけられていたのはよく知られていますね。
試作段階でこの記号が使われ、制式になると皇紀年式(皇紀26**年の下二桁か下一桁)が付けられ、さらに「愛称」が付与されます。
「疾風(はやて)」のように愛称を広く国民から募ることもありましたが、たいていは配属部内での愛称がそのまま通り名になったようです(隼・飛燕など)。
皇紀年式は皇紀2600年(西暦1940年:昭和15年)を海軍では「零式」、陸軍では「100式」として、これを境に、さかのぼって九九式、九八式、九七式・・・となり、新しくなると一式、二式、三式、四式、五式(終戦)となります。
※もし戦争が昭和二十年に終わらず、翌年に陸軍のジェット機「火龍(キ-201)」が採用になっていたら六式戦闘機になったであろうと考える人もいます。海軍の「橘花」の弟分の「火龍」は設計だけで終戦を迎えました。
さて「キ-1」はどんな飛行機だったのでしょう?
航空機ファンなら「九三式重爆」だと答えると思います。
とんでもなく不格好な飛行機で、こんなもんで戦えたのか?
「のどかな戦争やなぁ」と思うでしょう。

(Wikipediaより拝借したキ-1-Ⅰ)
この爆撃機は、機首が特異で、テラスというかバルコンになってて開放なんですよ。
ここに7.7粍旋回機関銃の銃座があるようです。
全長が14.8メートルで、全幅が26.5メートルと、翼のほうが長い。
そんだけエンジンの馬力が小さいから、揚力を得るために翼が広く長くなっているんだね。
写真では車輪が見えてますが、空力を考えて「スパッツ(カバー)」を履かせている機体もありました。
ただ当時の飛行場は草ぼうぼうでスパッツに丈の長い草が絡みついて詰まり、整備兵の不評を買って、写真のように車輪がむき出しになっているのです。
古典的な機体ゆえにスパッツの有無くらいで速度アップが図れたどうか疑問ですがね。
昭和十二年(1937年)の日華事変(日中戦争)が始まったころに活躍した機体です。
陸軍はそれまで飛行艇に車輪をつけたような八七式重爆を使っていましたが性能がとっても悪かったので、三菱飛行機に、当時新鋭のユンカースK37のような双発の爆撃機を発注するんですね。
八七式重爆はドルニエDo.Nともいい、ドイツのドルニエ社の設計で川崎航空機が製作した機体で、まだ「キ」記号はなかったんです。
K37は軽爆撃機に属し全長11.4メートル、全幅20メートルぐらいですかね。
これより一回り大きくして爆弾を1トン程度積んでいける「重爆」にせよとのお達しで、キ-1が出来上がったわけですね。
いろいろ問題の多い機体だったから、いっぱい改良させられ、Ⅰ型とⅡ型があったようです。
川崎にうんざりした陸軍は三菱飛行機に重爆の開発を依頼します。
九三式の後継機が名機九七式重爆(キ-21)になるのですが、三菱といえども、その仕上がりまで時間がかかっていました。
陸軍の中国大陸での戦況は予断を許さず、待てない陸軍はドイツのハインケルHe111という新鋭爆撃機の輸入をナチス・ドイツに申し入れます。
陸軍は三国同盟を海軍の反対を押し切って結び、ドイツから最新の兵器の技術供与を受けられると高をくくっていたのですが、どういうわけかナチスはHe111の供与を断ってきます。
※このいきさつをご存知の方、教えてくださいな。
仕方なく陸軍はイタリーのフィアットBR.20を八十機あまりと、大豆とのバーター取引で輸入します。
(イ式重爆)
これをイ式(イタリー式)重爆として当座をしのごうとしました。
全金属製で引き込み脚を装備し、SAFAT12.7粍機関砲ほかの武装や、1トンの爆弾積載量は陸軍をとりあえず満足させました。
実戦では、扱いにくさと故障の多さで現場の不満が続出し、たいして成果を上げられなかったと聞きます。
ただ、SAFAT12.7粍機関砲は、その後の日本陸軍の航空用機関砲(ホ-103)の母型となりました。
そうこうしているうちに三菱飛行機の九七式重爆が完成します。

(九七式重爆Ⅰ型甲)
どうでしょう?九三式とはまったく異なる流線形の美しい機影ですよね。
ノモンハン事件では、タムスクの爆撃などで活躍しました。
ノモンハン当時はかなりの高速爆撃機(約480㎞/h)でしたが、太平洋戦争中はすでに旧式になっていました。
それでも開戦直後のバギオ爆撃、戦争末期サイパンとテニアン爆撃など、華々しい戦果もあげています。
有名なのは、沖縄戦での義烈空挺隊が昭和二十年五月二十四日に十二機の九七重爆でアメリカの占領飛行場を襲い、一矢報いたことでしょうか。
九七重爆は汎用性の高い、安定な機体ゆえ、輸送任務に就くことも多く、これを輸送機に改造した100式輸送機も活躍しました。
このあと、陸軍はさらに重爆の開発を進め、中島飛行機のキ-49は一〇〇式重爆「呑龍(どんりゅう)」となり、三菱のキ-67は四式重爆「飛龍」となります。
しかしながら呑龍は九七式の武装強化型でしたが、九七式を越えることができず、エンジンの不調も相まって、乗組員や整備兵からは不評でした。

(日本で初めて尾部銃座を付けた「呑龍」の雄姿)
爆撃機を重武装することで護衛戦闘機の力を借りないで任務を果たせるという陸軍の考え方自体に問題があったのです。
回転銃座とか尾部銃座を取り付けたとしても、敵の単座戦闘機の軽快な動きに追従できるはずもなく、彼らの格好の餌食になるのは火を見るよりも明らかでした。
四式重爆「飛龍」はさすがに三菱だけあって、名機として記憶されています。
![飛行第74戦隊第1中隊[1]の四式重爆撃機(キ67)。部隊マークとして垂直尾翼に隊号である「7」と「4」を一文字に組み合わせた意匠を描く](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a0/Mitsubishi_Ki-67-2.jpg/300px-Mitsubishi_Ki-67-2.jpg)
(一式陸攻に似ている「飛龍」は三菱の名機)
まず航続距離が長いのはゼロ戦や一式陸攻の経験から、四式「飛龍」も例に漏れない。
そして丈夫な造りは、急降下爆撃をも行えるほどで、双発重爆であるのに軽快で急降下スピードも毎時600㎞におよびました。
爆弾の搭載量が800㎏までと少ないのが玉に瑕(きず)でしたがね。
「飛龍」と夜間戦闘機「銀河」の流線形は戦後、新幹線「0」系の設計参考にされたとか。
(引用した写真はすべてWikipediaから拝借いたしました)
試作段階でこの記号が使われ、制式になると皇紀年式(皇紀26**年の下二桁か下一桁)が付けられ、さらに「愛称」が付与されます。
「疾風(はやて)」のように愛称を広く国民から募ることもありましたが、たいていは配属部内での愛称がそのまま通り名になったようです(隼・飛燕など)。
皇紀年式は皇紀2600年(西暦1940年:昭和15年)を海軍では「零式」、陸軍では「100式」として、これを境に、さかのぼって九九式、九八式、九七式・・・となり、新しくなると一式、二式、三式、四式、五式(終戦)となります。
※もし戦争が昭和二十年に終わらず、翌年に陸軍のジェット機「火龍(キ-201)」が採用になっていたら六式戦闘機になったであろうと考える人もいます。海軍の「橘花」の弟分の「火龍」は設計だけで終戦を迎えました。
さて「キ-1」はどんな飛行機だったのでしょう?
航空機ファンなら「九三式重爆」だと答えると思います。
とんでもなく不格好な飛行機で、こんなもんで戦えたのか?
「のどかな戦争やなぁ」と思うでしょう。

(Wikipediaより拝借したキ-1-Ⅰ)
この爆撃機は、機首が特異で、テラスというかバルコンになってて開放なんですよ。
ここに7.7粍旋回機関銃の銃座があるようです。
全長が14.8メートルで、全幅が26.5メートルと、翼のほうが長い。
そんだけエンジンの馬力が小さいから、揚力を得るために翼が広く長くなっているんだね。
写真では車輪が見えてますが、空力を考えて「スパッツ(カバー)」を履かせている機体もありました。
ただ当時の飛行場は草ぼうぼうでスパッツに丈の長い草が絡みついて詰まり、整備兵の不評を買って、写真のように車輪がむき出しになっているのです。
古典的な機体ゆえにスパッツの有無くらいで速度アップが図れたどうか疑問ですがね。
昭和十二年(1937年)の日華事変(日中戦争)が始まったころに活躍した機体です。
陸軍はそれまで飛行艇に車輪をつけたような八七式重爆を使っていましたが性能がとっても悪かったので、三菱飛行機に、当時新鋭のユンカースK37のような双発の爆撃機を発注するんですね。
八七式重爆はドルニエDo.Nともいい、ドイツのドルニエ社の設計で川崎航空機が製作した機体で、まだ「キ」記号はなかったんです。
K37は軽爆撃機に属し全長11.4メートル、全幅20メートルぐらいですかね。
これより一回り大きくして爆弾を1トン程度積んでいける「重爆」にせよとのお達しで、キ-1が出来上がったわけですね。
いろいろ問題の多い機体だったから、いっぱい改良させられ、Ⅰ型とⅡ型があったようです。
川崎にうんざりした陸軍は三菱飛行機に重爆の開発を依頼します。
九三式の後継機が名機九七式重爆(キ-21)になるのですが、三菱といえども、その仕上がりまで時間がかかっていました。
陸軍の中国大陸での戦況は予断を許さず、待てない陸軍はドイツのハインケルHe111という新鋭爆撃機の輸入をナチス・ドイツに申し入れます。
陸軍は三国同盟を海軍の反対を押し切って結び、ドイツから最新の兵器の技術供与を受けられると高をくくっていたのですが、どういうわけかナチスはHe111の供与を断ってきます。
※このいきさつをご存知の方、教えてくださいな。
仕方なく陸軍はイタリーのフィアットBR.20を八十機あまりと、大豆とのバーター取引で輸入します。

これをイ式(イタリー式)重爆として当座をしのごうとしました。
全金属製で引き込み脚を装備し、SAFAT12.7粍機関砲ほかの武装や、1トンの爆弾積載量は陸軍をとりあえず満足させました。
実戦では、扱いにくさと故障の多さで現場の不満が続出し、たいして成果を上げられなかったと聞きます。
ただ、SAFAT12.7粍機関砲は、その後の日本陸軍の航空用機関砲(ホ-103)の母型となりました。
そうこうしているうちに三菱飛行機の九七式重爆が完成します。

(九七式重爆Ⅰ型甲)
どうでしょう?九三式とはまったく異なる流線形の美しい機影ですよね。
ノモンハン事件では、タムスクの爆撃などで活躍しました。
ノモンハン当時はかなりの高速爆撃機(約480㎞/h)でしたが、太平洋戦争中はすでに旧式になっていました。
それでも開戦直後のバギオ爆撃、戦争末期サイパンとテニアン爆撃など、華々しい戦果もあげています。
有名なのは、沖縄戦での義烈空挺隊が昭和二十年五月二十四日に十二機の九七重爆でアメリカの占領飛行場を襲い、一矢報いたことでしょうか。
九七重爆は汎用性の高い、安定な機体ゆえ、輸送任務に就くことも多く、これを輸送機に改造した100式輸送機も活躍しました。
このあと、陸軍はさらに重爆の開発を進め、中島飛行機のキ-49は一〇〇式重爆「呑龍(どんりゅう)」となり、三菱のキ-67は四式重爆「飛龍」となります。
しかしながら呑龍は九七式の武装強化型でしたが、九七式を越えることができず、エンジンの不調も相まって、乗組員や整備兵からは不評でした。

(日本で初めて尾部銃座を付けた「呑龍」の雄姿)
爆撃機を重武装することで護衛戦闘機の力を借りないで任務を果たせるという陸軍の考え方自体に問題があったのです。
回転銃座とか尾部銃座を取り付けたとしても、敵の単座戦闘機の軽快な動きに追従できるはずもなく、彼らの格好の餌食になるのは火を見るよりも明らかでした。
四式重爆「飛龍」はさすがに三菱だけあって、名機として記憶されています。
![飛行第74戦隊第1中隊[1]の四式重爆撃機(キ67)。部隊マークとして垂直尾翼に隊号である「7」と「4」を一文字に組み合わせた意匠を描く](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a0/Mitsubishi_Ki-67-2.jpg/300px-Mitsubishi_Ki-67-2.jpg)
(一式陸攻に似ている「飛龍」は三菱の名機)
まず航続距離が長いのはゼロ戦や一式陸攻の経験から、四式「飛龍」も例に漏れない。
そして丈夫な造りは、急降下爆撃をも行えるほどで、双発重爆であるのに軽快で急降下スピードも毎時600㎞におよびました。
爆弾の搭載量が800㎏までと少ないのが玉に瑕(きず)でしたがね。
「飛龍」と夜間戦闘機「銀河」の流線形は戦後、新幹線「0」系の設計参考にされたとか。
(引用した写真はすべてWikipediaから拝借いたしました)