1953年7月、板門店から西に二十キロの地点、開城(ケソン)にまで朝鮮人民軍は後退した。

朝鮮半島南部に李承晩政権が興り、北部は金日成将軍の軍が展開して一進一退となっていた。
米ソの対立は朝鮮半島の分断という形で膠着してしまった。


休戦協定が発効後して九年が経過したころ、かつて朝鮮人民軍の諜報員で現在は在日朝鮮総連広報官である高倫姫(コ・リンヒ)が最高指導者となった金日成に謁見を求めてきた。
当時、金日成の率いる朝鮮労働党満州派と対立する延安派に対する粛清の嵐が吹き荒れていた。
幕僚の幹部は、彼女の態度をいぶかしんだが、日帝高官からの機密情報を得ているということで将軍へ直々の御目通りがかなった。
「二人きりで話したい」
そう言ったのは金日成の方だった。
さすがに、取り巻きも異議をさしはさむことはできず、将軍も、女とはご無沙汰だろうし、見て見ぬふりをするほかなかった。
倫姫は、実は金日成の従妹にあたる女性で、互いに幼いころからよく知る仲だった。
その晩、何があったか知らないが、翌朝、倫姫は一番列車で開城から去った。
おそらく平壌(ピョンヤン)に向かったのだろう。
折しも、平壌市内には「千里馬(チョンリマ)運動を推進しよう」とスローガンのハングルが踊っていた。

金日成との謁見の直後、1960年から来日して以来、高倫姫は新潟にいた。
日本人拉致工作の任務に携わっていたのだった。
そこで在留資格を得て日本での仕事をやりやすくするため、日本の男性と偽装結婚せよと上から命令を受けていた。
長岡市の朝鮮人の経営するスナックで働きながら、かつて、児玉誉士夫の「児玉機関」で働いていたという横山高雄という男に出会う。
横山は、
「こないだ、児玉誉士夫先生の生前葬に参列したんだよ」
と、酔った勢いで、倫姫に言ったのだ。
倫姫は聞き逃さなかった。
この男、使える…
そう思ったのに違いなかった。
酔いに任せて、高雄はべらべらしゃべり、倫姫の腹は決まった。
「あなた、独身なの?あたしといっしょにならない?」
高雄は、女に飢えていた。
倫姫は美人とはいえないにしても、そそる妖艶な雰囲気を持っていた。

高倫姫は横山高雄と婚姻届けを出し、まんまと在留資格を得た。
そして信濃川のほとりの県営川岸町アパートという団地に新居を構えたのだった。
日本名を横山倫子と名乗ったのもこのころだった。
実は、倫姫はみごもっていた。
もちろん、高雄との間の子ではない。
彼女はその子が金日成の子であることを自覚していた。
高雄はそのことに気づいていない様子だった。
自分の子だと信じ切って、喜んでいた。
倫姫は金日成に書簡で、彼の子を身ごもっている旨、知らせていた。
金日成もたいそう喜んで、帰ってこいとまで言うのだが、こちらで所帯を持ってしまったので帰れないと返事をした。
それからすぐだった、
「生まれた子を朝鮮に連れて帰るよう将軍から命じられた」と上司が倫姫に告げた。
「それはこまる」
「命令だ」
「だったら、代わりの子が必要だ。さもないと夫が承知しない」
「わかった」
上司のキム・ハジョンは冷たい表情で倫姫の前から消えた。

無事、倫姫は出産した。
女の子だった。
夫の高雄は「麗子」と名付けた。
それほど麗しく、愛らしい子だった。
高雄はまさか他人の子だとは思ってもみなかった。
キム・ハジョンもしばらく、なにも子供のことについては言わなかったので、子供を差し出す件は立ち消えになったものと倫姫も思っていたくらいだった。

昭和三十九年六月十六日の昼に、新潟を大地震が襲った。
高雄は、そのころ朝鮮総連の日本側の職員として「参事」の職にあり、新潟の事務所に出ていた。
一方、倫姫ともうすぐ二歳になる麗子は団地にいた。
地震でこの団地は倒壊し、二十数名の死者が出た。
高雄は急いで駆けつけるも、その無残に倒壊した団地を見て呆然となった。
立ち入りは禁止され、救出活動が遅々として進まなかった。
愛妻と愛娘の行方を知りたい一心で、彼は聞きまわった。
二日後、新潟市内の病院に妻が収容されていることがわかると、高雄はそこに急行した。
倫姫は無事なようだったが、娘の姿はなかった。
「だめだったのか?」
「いないのよ。見つからないのよ」
そう言って泣き崩れた。

一か月も倒壊現場を探してもらい、警察にもお願いしたが、麗子の亡骸すら出なかった。
それもそのはず、倫姫は上司のキム・ハジョンに麗子を差し出したのだった。
そうするしか、倫姫から麗子を引き離す方法がなかったのだ。
この地震は、朝鮮にとって渡りに船だったのだ。

麗子の戸籍はそのままにされた。
そのうち、代わりの子を手当てするという名目で。
総連のやり口だった。
戸籍を売買したり、工作に使うためだった。
行方不明の場合、特別失踪の認定はその両親が意思表示をせねばならない。
死亡と認めてあきらめない限り、戸籍は残る。
つまり生きていることになる。

麗子が生まれたころと時を同じくして、大阪のある病院でボヤ騒ぎが起こったことがあった。
その際に、新生児室から何者かが新生児を五人もさらっていったという事件に発展した。
その後、事件は未解決のまま、その赤ちゃんたちは戻らなかった。

朝鮮総連から、倫姫夫妻に、麗子と同い年のひとりの女の子が紹介された。
「あなた、この子を麗子の代わりに」
「そうだな。それもありかな…」
麗子の戸籍をそのまま流用してしまえば、法律上の問題はあるにしても、実務上は問題がない。
しかし、高雄は頑として「麗子」は生きているとし、この子は「尚子」という名前にするのだという。
そうしないと麗子がかわいそうだと言って聞かなかった。
夫妻は、尚子を伴って、東京の豊島区駒込の高雄の両親が住む実家に帰っていった。

尚子は、東京の朝鮮総連本部のはからいで、横山高雄と倫子の実子として戸籍がつくられた。
土台人の李順二と豊島区役所住民課の羽場義男の働きがあったことは前に述べたとおりである。