北一輝(きたいっき)は天皇制を廃止しようとしていた。
北は中国で起こった辛亥革命に刺激されたらしく、浪曲師宮崎滔天(とうてん)に勧誘され、孫文と主宰する中国同盟会に参加するのである。
滔天は孫文を助けて、辛亥革命を成就させた黒幕であった。
彼が、清国が滅びて失墜してしまった中華思想を、アジアの解放、世界平和に必要なる思想と位置づけ、孫文をけしかけて革命を起こさせたと言っていい。
滔天は熊本の出で、徳富蘇峰らと交流があり、蘇峰が主催する「大江義塾」にキリスト自由主義を学んだと言われる。
1891年に滔天は上海に渡る。
朝鮮半島に勃発した東学党の乱で日本と清国の間は冷え切り、滔天は外務省の命で中国の思想活動の実態調査を命じられた。
彼は、当時の日本では中国(清国)通として信頼されていたらしい。
そういう活動を通じて大陸の革命党員らとの交流を深めていった。
北は中国で起こった辛亥革命に刺激されたらしく、浪曲師宮崎滔天(とうてん)に勧誘され、孫文と主宰する中国同盟会に参加するのである。
滔天は孫文を助けて、辛亥革命を成就させた黒幕であった。
彼が、清国が滅びて失墜してしまった中華思想を、アジアの解放、世界平和に必要なる思想と位置づけ、孫文をけしかけて革命を起こさせたと言っていい。
滔天は熊本の出で、徳富蘇峰らと交流があり、蘇峰が主催する「大江義塾」にキリスト自由主義を学んだと言われる。
1891年に滔天は上海に渡る。
朝鮮半島に勃発した東学党の乱で日本と清国の間は冷え切り、滔天は外務省の命で中国の思想活動の実態調査を命じられた。
彼は、当時の日本では中国(清国)通として信頼されていたらしい。
そういう活動を通じて大陸の革命党員らとの交流を深めていった。
北一輝は輝次(てるつぐ)が本名だったが、後に中国人との関係が深まるにつれ、中国風の「北一輝」に変名することにしたらしい。
彼は学生時代に幸徳秋水(こうとくしゅうすい)らの「平民社」に影響され社会主義に目覚めるのであった。
ただ、幸徳らはアナーキスト(無政府主義者)であり、北は、国家を必要とみていたところが異なる。
輝次は次第に旧憲法下の天皇制や華族制度に疑問を持ち、地元の『佐渡新聞』に「天皇は我々国民に近しい家族のような存在だ」と連載していた文章に書き、連載停止に追い込まれてしまった。
1906年北は、『国体論及び純正社会主義』なる著作をものし、即刻発禁処分となる。
天皇制を公然と批判したため、北は要注意人物として警察にマークされることになった。
その失意の中、宮崎滔天と出会うのだった。
彼は学生時代に幸徳秋水(こうとくしゅうすい)らの「平民社」に影響され社会主義に目覚めるのであった。
ただ、幸徳らはアナーキスト(無政府主義者)であり、北は、国家を必要とみていたところが異なる。
輝次は次第に旧憲法下の天皇制や華族制度に疑問を持ち、地元の『佐渡新聞』に「天皇は我々国民に近しい家族のような存在だ」と連載していた文章に書き、連載停止に追い込まれてしまった。
1906年北は、『国体論及び純正社会主義』なる著作をものし、即刻発禁処分となる。
天皇制を公然と批判したため、北は要注意人物として警察にマークされることになった。
その失意の中、宮崎滔天と出会うのだった。
北一輝と切り離して語れないのが「黒龍会」という右翼団体である。
「黒龍」は中国大陸の大河「黒龍江」の名から取られた。
この団体は、日清戦争後の三国干渉に対し、日本政府が弱腰外交をしたために憤慨した「玄洋社」がもとになっている。
「玄洋社」は、元は福岡黒田藩士が創立したアジア主義団体であった。
北一輝は「黒龍会」の機関紙『時事月函』記者として上海に渡り、革命家宋教仁(そうきょうじん)のもとに身を寄せた。
宋もまた、滔天によって孫文を紹介され、革命への道をたどるのであった。
辛亥革命の後、孫文が大総統に就任し、宣統帝が退位して清国が滅んで中華民国が興った。
その後すぐに清時代の大臣であった袁世凱が臨時大総統となったものの、彼の専制的なやり方を宋が嫌い、議会制を重んじるべきだと主張し、袁世凱と対立、国民党を立てて宋教仁が選挙で勝利する。
袁世凱が宋教仁を懐柔しようとするが靡(なび)かず、業を煮やした袁世凱は宋を射殺してしまう。
北一輝は宋の理解者だったが、宋が殺されたのは孫文がさし向けた刺客によるものだと信じていたようだ。
北は大陸で『国家改造原理大綱(のちに日本改造案大綱と改題)』というものを著し帰国、「猶存社」に合流(1921年正月)。
北一輝らは、議会にゆだねる政治はもはや限界と、クーデターによる「改造」を画策するようになったのもこのころだった。
後の「二・二六事件」を起こした青年将校らに影響を与えた思想が「私有財産の制限、資本集中を防ぐ、華族制度などの特権階級の廃止」を主張した北一輝ら「猶存社」の思想だった。
北一輝には子分が数人いたようで、もはやヤクザの親分のようになってしまっていた。
その子分の一人、清水行之助(こうのすけ)が安田生命の建物に血染めの着物を着て押し入り、巨大資本家の安田生命を脅す事件を起こす。
北も、第十五銀行が私利私欲で蓄財しているとあることないことをチラシに書いて撒き、資本家を震撼させた。
右翼団体の企業威嚇の端緒となった北一輝らの政治活動であるが、カネで始末のつく話ならと、資本家はこぞって北一輝をなだめるべく、賂(まいない)を送ったという。
1932年に三井財閥を脅した血盟団事件で、三井の団琢磨と日銀総裁井上準之助が殺害されたことも、北一輝、その盟友西田税(にしだみつぎ)に影響された右翼思想家の暴走と位置付けられている。
西田は血盟団の首謀者からテロ行為の相談を受けたが、反対したという。
血盟団事件は、のちに海軍将校らが起こしたクーデター未遂事件「五・一五事件(1932)」につながっていく。
だんだん、北一輝の政治活動とは別に、陸軍青年将校たちが語らってクーデターの企(たくら)みが独り歩きし始める。
陸軍内では、青年将校たちが政治家の党利党略政治に不満を募らせており、皇軍としての軍隊が軽んじられているとみていた。
また天皇の側近が陛下によからぬ情報を吹き込む奸臣だと決めつけて、誅滅しようと考えていた。
こうして「皇道派」を名乗る団体が興り、参加している青年将校たちが思想家北一輝に影響を受けたというだけで、北自身は一切関知しない団体だった。
なぜなら北の思想とは全く異なり、天皇親政のもと、ソビエト共産党と真っ向から対立して「昭和維新」を目論むものだったからである。
事件は、下士官兵合わせて1500名近い人数が集って武装蜂起し、政治家の邸宅を襲撃して政府転覆を試みたが失敗に終わった(1936年2月26日未明~29日)。
犠牲になった重臣、高官は多数に及び、後の首相となる鈴木貫太郎侍従長も重傷を負った。
首魁らは自決し、投降した者も死刑判決を受け刑死したか無期禁固の刑に服した。
「黒龍」は中国大陸の大河「黒龍江」の名から取られた。
この団体は、日清戦争後の三国干渉に対し、日本政府が弱腰外交をしたために憤慨した「玄洋社」がもとになっている。
「玄洋社」は、元は福岡黒田藩士が創立したアジア主義団体であった。
北一輝は「黒龍会」の機関紙『時事月函』記者として上海に渡り、革命家宋教仁(そうきょうじん)のもとに身を寄せた。
宋もまた、滔天によって孫文を紹介され、革命への道をたどるのであった。
辛亥革命の後、孫文が大総統に就任し、宣統帝が退位して清国が滅んで中華民国が興った。
その後すぐに清時代の大臣であった袁世凱が臨時大総統となったものの、彼の専制的なやり方を宋が嫌い、議会制を重んじるべきだと主張し、袁世凱と対立、国民党を立てて宋教仁が選挙で勝利する。
袁世凱が宋教仁を懐柔しようとするが靡(なび)かず、業を煮やした袁世凱は宋を射殺してしまう。
北一輝は宋の理解者だったが、宋が殺されたのは孫文がさし向けた刺客によるものだと信じていたようだ。
北は大陸で『国家改造原理大綱(のちに日本改造案大綱と改題)』というものを著し帰国、「猶存社」に合流(1921年正月)。
北一輝らは、議会にゆだねる政治はもはや限界と、クーデターによる「改造」を画策するようになったのもこのころだった。
後の「二・二六事件」を起こした青年将校らに影響を与えた思想が「私有財産の制限、資本集中を防ぐ、華族制度などの特権階級の廃止」を主張した北一輝ら「猶存社」の思想だった。
北一輝には子分が数人いたようで、もはやヤクザの親分のようになってしまっていた。
その子分の一人、清水行之助(こうのすけ)が安田生命の建物に血染めの着物を着て押し入り、巨大資本家の安田生命を脅す事件を起こす。
北も、第十五銀行が私利私欲で蓄財しているとあることないことをチラシに書いて撒き、資本家を震撼させた。
右翼団体の企業威嚇の端緒となった北一輝らの政治活動であるが、カネで始末のつく話ならと、資本家はこぞって北一輝をなだめるべく、賂(まいない)を送ったという。
1932年に三井財閥を脅した血盟団事件で、三井の団琢磨と日銀総裁井上準之助が殺害されたことも、北一輝、その盟友西田税(にしだみつぎ)に影響された右翼思想家の暴走と位置付けられている。
西田は血盟団の首謀者からテロ行為の相談を受けたが、反対したという。
血盟団事件は、のちに海軍将校らが起こしたクーデター未遂事件「五・一五事件(1932)」につながっていく。
だんだん、北一輝の政治活動とは別に、陸軍青年将校たちが語らってクーデターの企(たくら)みが独り歩きし始める。
陸軍内では、青年将校たちが政治家の党利党略政治に不満を募らせており、皇軍としての軍隊が軽んじられているとみていた。
また天皇の側近が陛下によからぬ情報を吹き込む奸臣だと決めつけて、誅滅しようと考えていた。
こうして「皇道派」を名乗る団体が興り、参加している青年将校たちが思想家北一輝に影響を受けたというだけで、北自身は一切関知しない団体だった。
なぜなら北の思想とは全く異なり、天皇親政のもと、ソビエト共産党と真っ向から対立して「昭和維新」を目論むものだったからである。
事件は、下士官兵合わせて1500名近い人数が集って武装蜂起し、政治家の邸宅を襲撃して政府転覆を試みたが失敗に終わった(1936年2月26日未明~29日)。
犠牲になった重臣、高官は多数に及び、後の首相となる鈴木貫太郎侍従長も重傷を負った。
首魁らは自決し、投降した者も死刑判決を受け刑死したか無期禁固の刑に服した。
それはそれで仕方がないのだが…
死刑囚に北一輝と西田税が入っており、彼らはクーデターを首謀していないのにしょっぴかれ、十分な裁判も受けられずに死刑執行となったのである。
※北一輝は決行の知らせを、事が起こった直後に、同じ思想家である渋川善助から知らされた。渋川は陸軍士官の河野壽(ひさし)航空大尉(事件の後自決)と企てに協力しており、渋川も銃殺刑に処された。
政府はこの邪魔者たちを消したかった。
二・二六事件を契機に北一輝と西田税を政府は合法的に葬ったのである。
死刑囚に北一輝と西田税が入っており、彼らはクーデターを首謀していないのにしょっぴかれ、十分な裁判も受けられずに死刑執行となったのである。
※北一輝は決行の知らせを、事が起こった直後に、同じ思想家である渋川善助から知らされた。渋川は陸軍士官の河野壽(ひさし)航空大尉(事件の後自決)と企てに協力しており、渋川も銃殺刑に処された。
政府はこの邪魔者たちを消したかった。
二・二六事件を契機に北一輝と西田税を政府は合法的に葬ったのである。
今日は二月二十六日である。