排他主義、ヘイトスピーチ、保守主義、差別感情…
これは、人間特有のものなのだろうか?
カンガルーの飼育をしている施設で、育児放棄されたカンガルーの子を人工保育で育てた例があった。
すくすくと育って、愛らしいが、いずれは群れに返さねばならないという。
カンガルーは群れで生息し、ボスのオスカンガルーが多くのメスを独占してハーレムを作っているらしい。
そういった群れに人工保育された子カンガルーを馴化させていくのだが、まず、たいてい「よそもの」扱いで無視される。
カンガルーに限ったことではなく、群れ社会を営む動物にはよくあることだそうだ。
たとえばペンギンがそうで、親からはぐれた子は、同族の群れの中で誰からも助けられず飢えて死んでしまう。
この根源的、本能的「排他主義」は種の保存の面から観察すれば当然のことなのかもしれない。
自己のDNAを保存し、後世に伝えるのが生物一般の使命だとすれば、他人のDNAを受け継いだ「どこの馬の骨」かわからん子を親身に育てるほど自然に余裕はない。
この状況は、高等な生物になっても同じであり、霊長類でも例外ではない。
グループ抗争もし烈であり、縄張りを守るために他者を執拗に排除する。
人間は理性があるから、隣人愛、同族愛も強いが、自分の家族を守るのが一番大事であり、その次に、所属する団体を守ることが大事とされ、日本人でも「村」を大事にするのはそういうことだ。
村が「群れ」を語源としているのは言語学者の共通の認識であり、その村が「群=郡」を形成していき、豪族が封建社会を築き上げ、国家となっていく。
この過程で、他者=弱者は強者に包含されていくか、滅ぼされるか二者択一である。
するとこのランク分けにおいて、差別感情が生まれる可能性は十分にある。
自分より弱い立場、マイノリティーははじき出すか、下に置いて使役する。
こういうランクが生まれ、差別社会ができあがる。
為政者はこの差別感情をうまく操って、人心掌握に使って国や地域を治めるのである。
在日外国人を差別するなどは典型である。
マイノリティーである「客人(まらうと)」は、さまよえる人であり、何らかの理由で元居た住処を追われた人々である。
ユダヤ人がそうだし、在日朝鮮人がそうだ。
またアラブ諸国の移民問題も同じだ。
アメリカの有色人種を差別するなどは、もとはアフリカから強制的に連れてきた奴隷が発端である。
このように、本人の意思に反して外国に置かれた人々を、その国の人が邪険にする。
保守政治は、外国人を内国人の生活を脅かす存在と位置付ける。
その手段としてヘイトスピーチを行い、あることないことを内国人に植え付けるのだった。
為政者が用いる「人の下に人を作」り、不満が為政者に向かわないようにするのである。
私は、差別感情が種の保存本能からくる生来的なものだとは思う。
しかし、人間は知恵と理性が、その無意味な本能をコントロールし、無益な争いを避けうることを可能にすると信じている。
人は法の下に平等であり、人権はあまねく人々に存在し他者から尊重されねばならない。
生まれながらにして個性があり、だれも同じ人はいないが、それぞれは尊重され、祝福されるものだ。
弱い立場の人を、言葉や、肌の色、生まれたところが違うだけで差別し、貶めることは断じてあってはならない。
そういう人権教育は、衣食住の知恵や読み書きそろばんに並んで重要なものだと、私は言いたいのだ。
SNSで、匿名性をいいことに、むき出しの差別感情をぶちまけている人がいるのは嘆かわしい。
根拠のない(自分で調べもしないで、ごみ情報を鵜呑みにする)ことで誹謗して、優越に浸る時間があるのなら、本や新聞をもっと読んでほしい。
麻生太郎に「自民党の支持者は新聞なんか読まない若者」だなんて、しゃあしゃあと言わせるこの国に未来はないような気がする。
これは、人間特有のものなのだろうか?
カンガルーの飼育をしている施設で、育児放棄されたカンガルーの子を人工保育で育てた例があった。
すくすくと育って、愛らしいが、いずれは群れに返さねばならないという。
カンガルーは群れで生息し、ボスのオスカンガルーが多くのメスを独占してハーレムを作っているらしい。
そういった群れに人工保育された子カンガルーを馴化させていくのだが、まず、たいてい「よそもの」扱いで無視される。
カンガルーに限ったことではなく、群れ社会を営む動物にはよくあることだそうだ。
たとえばペンギンがそうで、親からはぐれた子は、同族の群れの中で誰からも助けられず飢えて死んでしまう。
この根源的、本能的「排他主義」は種の保存の面から観察すれば当然のことなのかもしれない。
自己のDNAを保存し、後世に伝えるのが生物一般の使命だとすれば、他人のDNAを受け継いだ「どこの馬の骨」かわからん子を親身に育てるほど自然に余裕はない。
この状況は、高等な生物になっても同じであり、霊長類でも例外ではない。
グループ抗争もし烈であり、縄張りを守るために他者を執拗に排除する。
人間は理性があるから、隣人愛、同族愛も強いが、自分の家族を守るのが一番大事であり、その次に、所属する団体を守ることが大事とされ、日本人でも「村」を大事にするのはそういうことだ。
村が「群れ」を語源としているのは言語学者の共通の認識であり、その村が「群=郡」を形成していき、豪族が封建社会を築き上げ、国家となっていく。
この過程で、他者=弱者は強者に包含されていくか、滅ぼされるか二者択一である。
するとこのランク分けにおいて、差別感情が生まれる可能性は十分にある。
自分より弱い立場、マイノリティーははじき出すか、下に置いて使役する。
こういうランクが生まれ、差別社会ができあがる。
為政者はこの差別感情をうまく操って、人心掌握に使って国や地域を治めるのである。
在日外国人を差別するなどは典型である。
マイノリティーである「客人(まらうと)」は、さまよえる人であり、何らかの理由で元居た住処を追われた人々である。
ユダヤ人がそうだし、在日朝鮮人がそうだ。
またアラブ諸国の移民問題も同じだ。
アメリカの有色人種を差別するなどは、もとはアフリカから強制的に連れてきた奴隷が発端である。
このように、本人の意思に反して外国に置かれた人々を、その国の人が邪険にする。
保守政治は、外国人を内国人の生活を脅かす存在と位置付ける。
その手段としてヘイトスピーチを行い、あることないことを内国人に植え付けるのだった。
為政者が用いる「人の下に人を作」り、不満が為政者に向かわないようにするのである。
私は、差別感情が種の保存本能からくる生来的なものだとは思う。
しかし、人間は知恵と理性が、その無意味な本能をコントロールし、無益な争いを避けうることを可能にすると信じている。
人は法の下に平等であり、人権はあまねく人々に存在し他者から尊重されねばならない。
生まれながらにして個性があり、だれも同じ人はいないが、それぞれは尊重され、祝福されるものだ。
弱い立場の人を、言葉や、肌の色、生まれたところが違うだけで差別し、貶めることは断じてあってはならない。
そういう人権教育は、衣食住の知恵や読み書きそろばんに並んで重要なものだと、私は言いたいのだ。
SNSで、匿名性をいいことに、むき出しの差別感情をぶちまけている人がいるのは嘆かわしい。
根拠のない(自分で調べもしないで、ごみ情報を鵜呑みにする)ことで誹謗して、優越に浸る時間があるのなら、本や新聞をもっと読んでほしい。
麻生太郎に「自民党の支持者は新聞なんか読まない若者」だなんて、しゃあしゃあと言わせるこの国に未来はないような気がする。