これはユージェーヌ・シューというナポレオン時代のフランス人の作家が書いた長編小説だそうです。
私は読んだことがないので、内容を知らないのですが、高校で社会科を教えていた先輩がよくこの本の名を酒場で話題にしたんで思い出しました。
当時は、ベストセラーになったそうで、明治期の日本の作家や文人たちはこぞって原書や訳本を読んだらしい。
先輩の話では聖書の物語をネタに、風呂敷を広げた壮大なドラマになっているんだって。
ユダヤ人が今もなお、祖国を求めて世界をさまよっている理由がこの本を読めばわかるというのよ。
私のうろ覚えで申し訳ないが、だいたい次のような話だった。
イエス・キリストが、弟子のユダの誣告(ぶこく)によって十字架に磔(はりつけ)なったのは、誰でも知っているよね。
ユダの末裔がユダヤ人で、ユダの裏切りによって、ユダヤ人は以後、祖国を追い出され今に至っているのだと、私は思っていました。
それはそれで、だいたい合ってるんだけど、『さまよえるユダヤ人』では少し違った書き方がされている。
磔刑が決まったイエスは、自身がはりつけられる木製の大きな十字架を自ら担いで、ゴルゴダの丘の刑場にに引き立てられます。
イエスは拷問で体も血だらけで、足元もおぼつかない。
聖母マリアは、その息子の哀れな姿に泣き崩れますが、どうしようもない。
疲れ切った、イエスが靴屋の前で「休ませてほしい」と願うが、もとよりユダヤ人の靴屋はイエスにすげなくして断るんです。
このことが元で、イエスの死後、奇跡の復活を遂げたのち、ユダヤ人の靴屋もろとも、ユダヤ人はすべて故郷を失い、さまよい続けることになったのだというのがこの本の言わんとする内容です。
先輩の話では、聖書のどこを探してもこのエピソードは見つからないそうです。
つまり後世の人の作り話なんだろうね。
イエスともあろう人が、靴屋の理不尽を根に持って、ユダヤ人はみんな住処を失うのだと言わしめたという話は、なんとも了見の狭いことではないか?
先輩はこうも言う。
「イエスの生きた頃は、まだキリスト教はなかったはずだから、ユダヤ教しかなかった。そのユダヤ教徒のなかで、イエスも宗教活動をしていた。イエスだってユダヤ人なんだから」
ユダヤ人のユダヤ教から分派したのがキリスト教だと考えられているから、従前のユダヤ教に不満を持つ一派がイエスであり、後のキリスト教徒になっていくのだろう。
新約聖書はキリスト教に不利な、ユダヤ教の教えをもみ消す役目もあった。
とはいえ、ユダヤ人が過去に何度も迫害を受け、パレスチナ人と領土を争い、一部は、その勤勉さから巨万の富を築き、世界の経済を牛耳るほどに畏怖される。
また一方でボヘミアンやロマと言われる放浪の民もまたユダヤ人を起源とするそうだ。
私が国立民族学博物館の会員だったころ、そういった講義をうけたこともあった。
ロマの生活を再現した展示品もあった。
「さまよえるユダヤ人」はどうして作られたのだろう?
ユダの裏切りという一事をもって、そうなったのだろうか?
確かにキリスト教徒にとってはイエス・キリストを殺させた男がユダだというのだから、その恨みは根深いのかもしれない。
長い歴史の中で、ユダヤ人は時に賢く、時にあざとく、ふるまい、搾取する側に立ったことも妬まれる原因になったろうし、また、ボヘミアンがされたように、人の下に人を作って慰み者にされたユダヤ人の役回りもあったと思う。
ユダヤ人は、さまよい、世界中で重要な役割を演じてきたのだった。
被差別者になって、社会を支えたのも彼らだったとすれば、これは悲しい人類の歴史だと思う。
ユージェーヌの前掲書が新たなユダヤ人差別を作り出したのなら、あまり良い読み物ではないだろう。
祖国を失ったユダヤ人は、人の嫌がる仕事を請け負って、キリスト教徒たちから強制的に作らされた自分たちのコミュニティ「ゲットー」で暮らすようになり、力強く栄えてきたのだった。
だとすれば、聖書はキリスト教徒の経典ではあるが、ユダヤ人の迫害のきっかけを作った書物でもあろう。
私は読んだことがないので、内容を知らないのですが、高校で社会科を教えていた先輩がよくこの本の名を酒場で話題にしたんで思い出しました。
当時は、ベストセラーになったそうで、明治期の日本の作家や文人たちはこぞって原書や訳本を読んだらしい。
先輩の話では聖書の物語をネタに、風呂敷を広げた壮大なドラマになっているんだって。
ユダヤ人が今もなお、祖国を求めて世界をさまよっている理由がこの本を読めばわかるというのよ。
私のうろ覚えで申し訳ないが、だいたい次のような話だった。
イエス・キリストが、弟子のユダの誣告(ぶこく)によって十字架に磔(はりつけ)なったのは、誰でも知っているよね。
ユダの末裔がユダヤ人で、ユダの裏切りによって、ユダヤ人は以後、祖国を追い出され今に至っているのだと、私は思っていました。
それはそれで、だいたい合ってるんだけど、『さまよえるユダヤ人』では少し違った書き方がされている。
磔刑が決まったイエスは、自身がはりつけられる木製の大きな十字架を自ら担いで、ゴルゴダの丘の刑場にに引き立てられます。
イエスは拷問で体も血だらけで、足元もおぼつかない。
聖母マリアは、その息子の哀れな姿に泣き崩れますが、どうしようもない。
疲れ切った、イエスが靴屋の前で「休ませてほしい」と願うが、もとよりユダヤ人の靴屋はイエスにすげなくして断るんです。
このことが元で、イエスの死後、奇跡の復活を遂げたのち、ユダヤ人の靴屋もろとも、ユダヤ人はすべて故郷を失い、さまよい続けることになったのだというのがこの本の言わんとする内容です。
先輩の話では、聖書のどこを探してもこのエピソードは見つからないそうです。
つまり後世の人の作り話なんだろうね。
イエスともあろう人が、靴屋の理不尽を根に持って、ユダヤ人はみんな住処を失うのだと言わしめたという話は、なんとも了見の狭いことではないか?
先輩はこうも言う。
「イエスの生きた頃は、まだキリスト教はなかったはずだから、ユダヤ教しかなかった。そのユダヤ教徒のなかで、イエスも宗教活動をしていた。イエスだってユダヤ人なんだから」
ユダヤ人のユダヤ教から分派したのがキリスト教だと考えられているから、従前のユダヤ教に不満を持つ一派がイエスであり、後のキリスト教徒になっていくのだろう。
新約聖書はキリスト教に不利な、ユダヤ教の教えをもみ消す役目もあった。
とはいえ、ユダヤ人が過去に何度も迫害を受け、パレスチナ人と領土を争い、一部は、その勤勉さから巨万の富を築き、世界の経済を牛耳るほどに畏怖される。
また一方でボヘミアンやロマと言われる放浪の民もまたユダヤ人を起源とするそうだ。
私が国立民族学博物館の会員だったころ、そういった講義をうけたこともあった。
ロマの生活を再現した展示品もあった。
「さまよえるユダヤ人」はどうして作られたのだろう?
ユダの裏切りという一事をもって、そうなったのだろうか?
確かにキリスト教徒にとってはイエス・キリストを殺させた男がユダだというのだから、その恨みは根深いのかもしれない。
長い歴史の中で、ユダヤ人は時に賢く、時にあざとく、ふるまい、搾取する側に立ったことも妬まれる原因になったろうし、また、ボヘミアンがされたように、人の下に人を作って慰み者にされたユダヤ人の役回りもあったと思う。
ユダヤ人は、さまよい、世界中で重要な役割を演じてきたのだった。
被差別者になって、社会を支えたのも彼らだったとすれば、これは悲しい人類の歴史だと思う。
ユージェーヌの前掲書が新たなユダヤ人差別を作り出したのなら、あまり良い読み物ではないだろう。
祖国を失ったユダヤ人は、人の嫌がる仕事を請け負って、キリスト教徒たちから強制的に作らされた自分たちのコミュニティ「ゲットー」で暮らすようになり、力強く栄えてきたのだった。
だとすれば、聖書はキリスト教徒の経典ではあるが、ユダヤ人の迫害のきっかけを作った書物でもあろう。