今年もこの週間が始まりました。
私は、しかし強制されて本を読むなんて言うのは良くないと思っています。
読書なんてのは趣味であり、気に入らないならしなければいい。
本を何冊も読むことが目的化してしまうと、速読術などの技術に走ることになるでしょう?
本は古来より「熟読玩味」するものだとされています。
本に対する敬意、いや作家に対する敬意ですかね、そういうものを感じながら読むから身につくのではないでしょうか?
感想文を書かせる、日本の教育は、だから読書嫌いを作る悪弊です。
ノルマはないのですよ、読書に。
だから読むのが速かろうが、遅かろうが関係ないのです。
私は、最近、無人島にもっていくならどんな本がいいだろうかという、よくある視点で自分の書庫をひっくり返して、至福の時間を過ごしています。
秋のやわらかい日差しが、摺りガラスの窓を通して私の書庫に届き、埃がその光線を浮き立たせています。
「とりあえず、ユイスマンスの『さかしま』は持っていくか…」
「ファラデーの『ロウソクの科学』も何度も読んだなぁ。これも入れとこ」
「あ、これこれ『山頭火俳句集』もいいよなぁ」
「ほんなら『一握の砂・悲しき玩具』も持っていきたいな」
「うわうわ、坂口安吾の『白痴』。これも何度も読んでボロボロや」
「やっぱり野坂昭如の『エロ事師たち』は捨て置けんな」
「開高健のは『日本三文オペラ』にしようか『輝ける闇』にしようか、迷うなぁ」
「『壷井栄童話集』も好きなんやなぁ」
「『吾輩は猫である』は、最初に読んだ文庫やったなぁ」
「北杜夫『幽霊』、安部公房『飢餓同盟』これは入れとこ」
…
もう日が暮れてしまった。
私の手にはシモーヌ・ヴェイユの『工場日記』があった。
東野圭吾や宮部みゆきなんかも読んだが、二度と開く本ではなかった。
やはり今の人の文学には、滋味がない。
ラムネ菓子のように後味が残らないのだった。
だから、誤って二度読んでしまうこともあった。
ずいぶん読み進んでから「読んだことあるなぁ」と思い出すのである。
ただ、『ノルウェイの森』は二度読んだ。
二度目のほうが、良さがわかった。
でも村上春樹氏のほかの作品には手が出ないでいる。
理由はわからない。
時間の無駄になりはしないかと思うからかもしれない。
私の無人島への旅支度は、まだまだ続くのだった。
私は、しかし強制されて本を読むなんて言うのは良くないと思っています。
読書なんてのは趣味であり、気に入らないならしなければいい。
本を何冊も読むことが目的化してしまうと、速読術などの技術に走ることになるでしょう?
本は古来より「熟読玩味」するものだとされています。
本に対する敬意、いや作家に対する敬意ですかね、そういうものを感じながら読むから身につくのではないでしょうか?
感想文を書かせる、日本の教育は、だから読書嫌いを作る悪弊です。
ノルマはないのですよ、読書に。
だから読むのが速かろうが、遅かろうが関係ないのです。
私は、最近、無人島にもっていくならどんな本がいいだろうかという、よくある視点で自分の書庫をひっくり返して、至福の時間を過ごしています。
秋のやわらかい日差しが、摺りガラスの窓を通して私の書庫に届き、埃がその光線を浮き立たせています。
「とりあえず、ユイスマンスの『さかしま』は持っていくか…」
「ファラデーの『ロウソクの科学』も何度も読んだなぁ。これも入れとこ」
「あ、これこれ『山頭火俳句集』もいいよなぁ」
「ほんなら『一握の砂・悲しき玩具』も持っていきたいな」
「うわうわ、坂口安吾の『白痴』。これも何度も読んでボロボロや」
「やっぱり野坂昭如の『エロ事師たち』は捨て置けんな」
「開高健のは『日本三文オペラ』にしようか『輝ける闇』にしようか、迷うなぁ」
「『壷井栄童話集』も好きなんやなぁ」
「『吾輩は猫である』は、最初に読んだ文庫やったなぁ」
「北杜夫『幽霊』、安部公房『飢餓同盟』これは入れとこ」
…
もう日が暮れてしまった。
私の手にはシモーヌ・ヴェイユの『工場日記』があった。
東野圭吾や宮部みゆきなんかも読んだが、二度と開く本ではなかった。
やはり今の人の文学には、滋味がない。
ラムネ菓子のように後味が残らないのだった。
だから、誤って二度読んでしまうこともあった。
ずいぶん読み進んでから「読んだことあるなぁ」と思い出すのである。
ただ、『ノルウェイの森』は二度読んだ。
二度目のほうが、良さがわかった。
でも村上春樹氏のほかの作品には手が出ないでいる。
理由はわからない。
時間の無駄になりはしないかと思うからかもしれない。
私の無人島への旅支度は、まだまだ続くのだった。