外出自粛のゴールデンウイークをいかがお過ごしでしょうか?
抜けるような青空を見上げながら、考えるんですね。あたし。
そうだ、ニュートン力学は「連続」の力学であるのに対し、量子力学は「飛び飛びの値をとる」力学だったよな…
それはルードヴィヒ・ボルツマンらが研究した「統計力学」という手法によって、あるいは、ニルス・ボーアやマックス・プランクによる実験的なアプローチによって、二つの力学の「差」が明らかになっていったんだと思うんです。
ニュートンの「連続」とは「塊(かたまり)」のことだと思っていい。
机やリンゴ、砲丸、果ては地球や月などの「塊」の物体の運動を観察し、数式に当てはめた力学がニュートン力学なのだと。
あるいは抽象化して「質点の力学」とも言いますかね。
だから、「塊」とは「質点の集合体」であるということです。
一方で、物体を分割不可能にまで割っていくと、原子という粒子になっていくという、古代ギリシアの「原子論」を出発点に、ジョン・ドルトンの「原子」や「分子」が起こす化学反応への言及から、ボルツマンは、気体分子一個ずつの運動をモデル化することで、その一個ずつは実際には見ることもできないので、「状態」という概念を用いて、要するに粒子一個づつの「状態の数」を数え、それが全体として確率的(統計的)にどのような性質として観察されるかという見方を打ち立てたのでしょう。
これを「統計力学」と言うのだと、私は大学で学んだことを反芻(はんすう)していました。
「気体分子運動論」はその成果であります。
量子論者は、粒子一つずつを議論するが、古典論者は塊としての物体の運動を議論する…そう言い換えてもよいかもしれません。
つまり量子論者は粒子を、一個ずつ数えることができる「整数(自然数)」としての力学を論じたのです。
これはすなわち「飛び飛びの値をとる力学」が「量子力学」なのだと、強引ですがそういうことなんですよ。
とはいえ、これでは、甚だしく乱暴な言い方ですわね。
しかし、良い天気です。
「行雲流水(こううんりゅうすい)」とはこんな季節のありさまをいうのでしょうかね。
ところで、前に、不確定性原理というものをブログに書いたことがあったと思います。
ヴェルナー・ハイゼンベルクというドイツの学者が唱えた、量子力学の、大変重要な原理の一つです。
ΔxΔp≧h/2π …①
電子のような素粒子の位置(Δx)と、その位置での運動量(Δp)を同時に測定することは、いくら技術が向上しても不可能であるということであり、素粒子の位置を知ろうとすれば、その運動量は不確定となり、素粒子の運動量を知ろうとすれば位置の情報が不確定になると言うことです。
電子顕微鏡では「電子」をAu(金)原子でコーティングされた試料に照射して、その反射や回折を画像にしていますが、では電子を電子に当てて電子を見ることができるでしょうか?
それは、不可能なんです。
いくら性能の良い電子顕微鏡が開発されても、電子で電子を見ることはできないのです。
電子に電子を当てたとたんに「不確定性原理」が邪魔をして見えなくしてしまう。
素粒子の位置と運動量の積がディラック定数(プランク定数を2πで割った数)以上であり、ディラック定数より小さくなることはないからだと①式は言っています。
以上がハイゼンベルクのいう不確定性原理の意味です。
電子はだから「電子雲」という確率分布によって表されて、一応の存在を示しています。
「だいたいそのあたりに電子がいる確率が高い」という表現になりますかね。
ボルツマンが統計力学で到達した「粒子=数えられる」という概念は、プランクらが到達した「量子」の概念と親和しました。
もちろん「数えられる」といっても粒子の数なんてのはアボガドロ数が示すように、べらぼうな大きな数ですから、数えることは理論的には可能という意味で、実際は確率(統計)で議論するほかないのですよ。
つまり彼らは見方が違っていたけれど、同じ景色を見ていたのだと私は思います。
とはいえ、ニュートン力学との整合は、どう取ればいいのでしょうかね。
私は、庭の草をむしりながら、思索を続けました。
それに答えるのが「リュービユの定理」かもしれないと、何かの本で読んだ気がします。
微小な仮想空間を考え、その中の粒子の動き一つ一つを数えて状態を決定するのです。
粒子は数えることができるのですから。
そしてその微小容積の中の粒子の密度は変化しないという前提があの定理にはあったんだと思い出しました。
だから体積も変化しないのですよ。
そしてその体積が塊となって運動すると考えれば、ニュートン力学に整合するんじゃないかな。
「統計力学」も結局は粒子の一つ一つの「状態」の足し合わせで全体が成り立つと言っているのです。
ボルツマンの原理を表す等式、S=k ℓogeWは、そうだと言っているじゃないか?
ハイゼンベルクの名著『部分と全体』(みすず書房)は、難解な本ですが、やはりそのことを言いたかったのだと私は気づきました。
こういうのは「屁理屈」に近いかもしれませんが、ニュートン力学と量子力学が「全く別物」という割り切った考えを嫌う私などには、必要な考えだと思います。
やはり、古典力学の延長上に量子力学があると信じたいし、現に目の前にある運動はニュートン力学で完全に説明されるし、その運動する物体を電子顕微鏡で細かく観察したとして、どこかでガラっと力学が変わってしまうというのは「気持ち悪い」じゃないですか?
ゴールデンウイークは始まったばかりです。
私のインナートリップも始まりました。
抜けるような青空を見上げながら、考えるんですね。あたし。
そうだ、ニュートン力学は「連続」の力学であるのに対し、量子力学は「飛び飛びの値をとる」力学だったよな…
それはルードヴィヒ・ボルツマンらが研究した「統計力学」という手法によって、あるいは、ニルス・ボーアやマックス・プランクによる実験的なアプローチによって、二つの力学の「差」が明らかになっていったんだと思うんです。
ニュートンの「連続」とは「塊(かたまり)」のことだと思っていい。
机やリンゴ、砲丸、果ては地球や月などの「塊」の物体の運動を観察し、数式に当てはめた力学がニュートン力学なのだと。
あるいは抽象化して「質点の力学」とも言いますかね。
だから、「塊」とは「質点の集合体」であるということです。
一方で、物体を分割不可能にまで割っていくと、原子という粒子になっていくという、古代ギリシアの「原子論」を出発点に、ジョン・ドルトンの「原子」や「分子」が起こす化学反応への言及から、ボルツマンは、気体分子一個ずつの運動をモデル化することで、その一個ずつは実際には見ることもできないので、「状態」という概念を用いて、要するに粒子一個づつの「状態の数」を数え、それが全体として確率的(統計的)にどのような性質として観察されるかという見方を打ち立てたのでしょう。
これを「統計力学」と言うのだと、私は大学で学んだことを反芻(はんすう)していました。
「気体分子運動論」はその成果であります。
量子論者は、粒子一つずつを議論するが、古典論者は塊としての物体の運動を議論する…そう言い換えてもよいかもしれません。
つまり量子論者は粒子を、一個ずつ数えることができる「整数(自然数)」としての力学を論じたのです。
これはすなわち「飛び飛びの値をとる力学」が「量子力学」なのだと、強引ですがそういうことなんですよ。
とはいえ、これでは、甚だしく乱暴な言い方ですわね。
しかし、良い天気です。
「行雲流水(こううんりゅうすい)」とはこんな季節のありさまをいうのでしょうかね。
ところで、前に、不確定性原理というものをブログに書いたことがあったと思います。
ヴェルナー・ハイゼンベルクというドイツの学者が唱えた、量子力学の、大変重要な原理の一つです。
ΔxΔp≧h/2π …①
電子のような素粒子の位置(Δx)と、その位置での運動量(Δp)を同時に測定することは、いくら技術が向上しても不可能であるということであり、素粒子の位置を知ろうとすれば、その運動量は不確定となり、素粒子の運動量を知ろうとすれば位置の情報が不確定になると言うことです。
電子顕微鏡では「電子」をAu(金)原子でコーティングされた試料に照射して、その反射や回折を画像にしていますが、では電子を電子に当てて電子を見ることができるでしょうか?
それは、不可能なんです。
いくら性能の良い電子顕微鏡が開発されても、電子で電子を見ることはできないのです。
電子に電子を当てたとたんに「不確定性原理」が邪魔をして見えなくしてしまう。
素粒子の位置と運動量の積がディラック定数(プランク定数を2πで割った数)以上であり、ディラック定数より小さくなることはないからだと①式は言っています。
以上がハイゼンベルクのいう不確定性原理の意味です。
電子はだから「電子雲」という確率分布によって表されて、一応の存在を示しています。
「だいたいそのあたりに電子がいる確率が高い」という表現になりますかね。
ボルツマンが統計力学で到達した「粒子=数えられる」という概念は、プランクらが到達した「量子」の概念と親和しました。
もちろん「数えられる」といっても粒子の数なんてのはアボガドロ数が示すように、べらぼうな大きな数ですから、数えることは理論的には可能という意味で、実際は確率(統計)で議論するほかないのですよ。
つまり彼らは見方が違っていたけれど、同じ景色を見ていたのだと私は思います。
とはいえ、ニュートン力学との整合は、どう取ればいいのでしょうかね。
私は、庭の草をむしりながら、思索を続けました。
それに答えるのが「リュービユの定理」かもしれないと、何かの本で読んだ気がします。
微小な仮想空間を考え、その中の粒子の動き一つ一つを数えて状態を決定するのです。
粒子は数えることができるのですから。
そしてその微小容積の中の粒子の密度は変化しないという前提があの定理にはあったんだと思い出しました。
だから体積も変化しないのですよ。
そしてその体積が塊となって運動すると考えれば、ニュートン力学に整合するんじゃないかな。
「統計力学」も結局は粒子の一つ一つの「状態」の足し合わせで全体が成り立つと言っているのです。
ボルツマンの原理を表す等式、S=k ℓogeWは、そうだと言っているじゃないか?
ハイゼンベルクの名著『部分と全体』(みすず書房)は、難解な本ですが、やはりそのことを言いたかったのだと私は気づきました。
こういうのは「屁理屈」に近いかもしれませんが、ニュートン力学と量子力学が「全く別物」という割り切った考えを嫌う私などには、必要な考えだと思います。
やはり、古典力学の延長上に量子力学があると信じたいし、現に目の前にある運動はニュートン力学で完全に説明されるし、その運動する物体を電子顕微鏡で細かく観察したとして、どこかでガラっと力学が変わってしまうというのは「気持ち悪い」じゃないですか?
ゴールデンウイークは始まったばかりです。
私のインナートリップも始まりました。