この短編は志賀直哉の『小僧の神様・城の崎にて』(新潮文庫)の後ろの方に載っている。
女の味を北国のカニの鋏の肉にたとえたところが印象にあると、開高健がカニが話題の文章で書いていた。
かつて、私も読んでいるはずなのだが、まったく記憶になく、再びこの文庫を引っ張り出しているところだ。
二十代のころ、冬の城崎(「の」は入らない)にカニを食べに行くという先輩たちに、ついていったことがあり、京都駅の本屋で出発前に、何か読むものをと買い求めたのがこの文庫だった。
山陰線の汽車(気動車)に揺られながら、ボックス席で駅弁を堪能し、車窓から冬の日本海を初めて見た。
そんな昔の思い出は置いておくとして、『痴情』である。
とても短い話なので、10分もあれば読めてしまうだろう。
のっけから男の、それも志賀直哉自身のと思われる「言い訳」から始まる。
実はその前に『山科の記憶』という短編がありそこから読むべきものらしい。
どうやら、奥さんに不倫がバレたらしいのだ。
奥方は、手切れ金を払って身ぎれいにしてくれと迫っている。
冬の山科の寓居での話らしく、ますますそれは志賀直哉のことに違いない。
男はぐずぐずして、なかなか銀行へ金を用意しに行かない。
奥方がしびれを切らして、自分も一緒に行くと言い出す。
男は、開き直って、そう言うことをしでかした自分にも、普段見せない度を外した態度の細君にも腹を立てている。
「もうこんなことはしてくれるな」と懇願する細君に、「将来のことは保証できない」という男。
愛する妻の気持ちも痛いほどわかるのだ、わかりきっているのだが、正直な自分の心も大事なのだった。
妻には全く落ち度はないのである。しかし「これだけのことで…」という気持ちもある。
おまけに、不倫相手を「精神的なものは何ものをも持たぬ、男のような女」で「何故これほど惹かれるのか、自分でも不思議」と小ばかにしたような言葉を吐き、ただ「官能的な魅力」しか感じないという身も蓋もないことを平気で書くのである。
まったく女を性具としてしか考えていない。エロ小説ならそれでもよかろうが、直哉の文章力では、世の男性はまったく勃起しないだろう。
まだ私の方が立たせる自信がある。
学習院のボンボンには到底無理な話である。
『痴情』は、明治男のだらしなさ、卑屈さが十二分に発揮されている、最低の文学であった。
読む者をいらだたせるのに、これほど効果的な文章があるだろうか?
それよりも「痴情のもつれ」を敢えて書く実験的な試みなのだろうか>
結末もはっきりしない、細君の長々とした手紙で終わる中途半端さである。
どうやらその次の短編『晩秋』へつながっているのか?
『好人物の夫婦』『瑣事』『山科の記憶』『痴情』『晩秋』から大著『暗夜行路』につながる「部品」のような素材をこれらの小説に見ることができる。
志賀直哉にとって「痴情」は抑えがたいものらしく、妻帯してもほかの女への恋情は沸き起こり、行為しなくては収まらないらしい。
そしてバレれば子供のように癇癪(かんしゃく)を起こして「仕方なかった」と開き直り、周囲に迷惑をかけ、しおらしく謝罪をするが、まったく堪(こた)えていないのだった。
志賀直哉の文学はこういった土台の上に成り立っているのである。
痴情をテーマに書いた文豪は多い。
谷崎潤一郎がそうだし、田山花袋もそうだろう。
しかし、志賀直哉のそれは、読者をいらだたせるのが目的で書いているのではないかと私は勘ぐるのである。
『城の崎にて』もそうなのだ。
ぐずぐず思い悩む主人公(おそらく直哉自身)の独白調の文が続くのである。
そしてイモリに石を投げて、運悪く殺してしまう情景を子細に書くところが、ヤマ場といえばそうなるのだろう。
ベケットのような、不条理文学の一種なのかもしれないとも思った。
一種の心の病を得ないと文学など、ものすることはできないのだろうか?
女の味を北国のカニの鋏の肉にたとえたところが印象にあると、開高健がカニが話題の文章で書いていた。
かつて、私も読んでいるはずなのだが、まったく記憶になく、再びこの文庫を引っ張り出しているところだ。
二十代のころ、冬の城崎(「の」は入らない)にカニを食べに行くという先輩たちに、ついていったことがあり、京都駅の本屋で出発前に、何か読むものをと買い求めたのがこの文庫だった。
山陰線の汽車(気動車)に揺られながら、ボックス席で駅弁を堪能し、車窓から冬の日本海を初めて見た。
そんな昔の思い出は置いておくとして、『痴情』である。
とても短い話なので、10分もあれば読めてしまうだろう。
のっけから男の、それも志賀直哉自身のと思われる「言い訳」から始まる。
実はその前に『山科の記憶』という短編がありそこから読むべきものらしい。
どうやら、奥さんに不倫がバレたらしいのだ。
奥方は、手切れ金を払って身ぎれいにしてくれと迫っている。
冬の山科の寓居での話らしく、ますますそれは志賀直哉のことに違いない。
男はぐずぐずして、なかなか銀行へ金を用意しに行かない。
奥方がしびれを切らして、自分も一緒に行くと言い出す。
男は、開き直って、そう言うことをしでかした自分にも、普段見せない度を外した態度の細君にも腹を立てている。
「もうこんなことはしてくれるな」と懇願する細君に、「将来のことは保証できない」という男。
愛する妻の気持ちも痛いほどわかるのだ、わかりきっているのだが、正直な自分の心も大事なのだった。
妻には全く落ち度はないのである。しかし「これだけのことで…」という気持ちもある。
おまけに、不倫相手を「精神的なものは何ものをも持たぬ、男のような女」で「何故これほど惹かれるのか、自分でも不思議」と小ばかにしたような言葉を吐き、ただ「官能的な魅力」しか感じないという身も蓋もないことを平気で書くのである。
まったく女を性具としてしか考えていない。エロ小説ならそれでもよかろうが、直哉の文章力では、世の男性はまったく勃起しないだろう。
まだ私の方が立たせる自信がある。
学習院のボンボンには到底無理な話である。
『痴情』は、明治男のだらしなさ、卑屈さが十二分に発揮されている、最低の文学であった。
読む者をいらだたせるのに、これほど効果的な文章があるだろうか?
それよりも「痴情のもつれ」を敢えて書く実験的な試みなのだろうか>
結末もはっきりしない、細君の長々とした手紙で終わる中途半端さである。
どうやらその次の短編『晩秋』へつながっているのか?
『好人物の夫婦』『瑣事』『山科の記憶』『痴情』『晩秋』から大著『暗夜行路』につながる「部品」のような素材をこれらの小説に見ることができる。
志賀直哉にとって「痴情」は抑えがたいものらしく、妻帯してもほかの女への恋情は沸き起こり、行為しなくては収まらないらしい。
そしてバレれば子供のように癇癪(かんしゃく)を起こして「仕方なかった」と開き直り、周囲に迷惑をかけ、しおらしく謝罪をするが、まったく堪(こた)えていないのだった。
志賀直哉の文学はこういった土台の上に成り立っているのである。
痴情をテーマに書いた文豪は多い。
谷崎潤一郎がそうだし、田山花袋もそうだろう。
しかし、志賀直哉のそれは、読者をいらだたせるのが目的で書いているのではないかと私は勘ぐるのである。
『城の崎にて』もそうなのだ。
ぐずぐず思い悩む主人公(おそらく直哉自身)の独白調の文が続くのである。
そしてイモリに石を投げて、運悪く殺してしまう情景を子細に書くところが、ヤマ場といえばそうなるのだろう。
ベケットのような、不条理文学の一種なのかもしれないとも思った。
一種の心の病を得ないと文学など、ものすることはできないのだろうか?