私は、机の上に突っ伏して寝てしまっていたらしい。
肌寒さを感じて起き、目覚まし時計を見ると午前四時ニ十分を指していた。
母が綿入れのちゃんちゃんこを掛けてくれたらしいが、半分落ちかかっている。
足元の電気ストーブはあかあかと灯ったままで、窓の外はまだ暗かった。

私は博士論文の執筆に取り組んでいたのである。
『大風子油由来不飽和環状脂肪酸の生合成経路の一考察』という物々しい表題の論文である。
「大風子(だいふうし)」とはインドなどで自生しているイイギリ科のダイフウシノキの実の種(たね)をいい、その種を圧搾して得られる植物油を「大風子油(だいふうしゆ)」と呼ぶ。

私は、関西理工大学応用化学科の油脂工業化学研究室の博士課程に奉職している。
川瀬育夫教授のもとで修士課程を終えてそのまま教授の研究テーマの一翼を担わせていただいているのだった。
「今日こそ、行かなあかん」
私は自分に言い聞かせていた。
二週間近くも私は、論文を仕上げるために自宅にずっと引きこもっていたからだ。昨年内に実験の部分は終わっていて、データー整理と構成に時間を取られてしまっていた。
川瀬先生も学部の入試準備に忙しくされていて、お互いに打ち合わせることができなかったことも一因ではあった。

大風子油は、その昔、レブラ(癩:らい)の特効薬として珍重されたのである。
レブラは、今日ではハンセン氏病と名を変えて、不治の病ではなくなっている。
私はそういった医学や薬学の興味から大風子油を研究しているのではない。
大風子油のグリセリドの構成脂肪酸が「不飽和環状脂肪酸」という極めて珍しい構造を持つことから、それがダイフウシノキの体内でどうやって生合成されるのかに興味をかき立てられたからである。
もっとも川瀬先生がその道の専門であるということで触発されたことは否めないが。
私は、大風子油混合脂肪酸のショウルムーグリン酸、ヒドノカルピン酸、ゴルリン酸の三種類の不飽和環状脂肪酸について詳細に調査した。
インドのハイデラバード大学、シン教授の協力もあって、多くの種子や採油サンプルを送ってもらったことも成果につながった。なにしろ本種のサンプルが日本国内にほとんどないので着手当初はまったく研究の進展がなかったので困ったものだった。
ところで、不飽和環状脂肪酸とはカルボキシル基の反対側、つまりアルキル基の末端に五員環の環状構造を持つことと、その五員環に二重結合(不飽和結合)がひとつ含まれていることからこの名がある。
この油がハンセン氏病の特効薬だったと書いたが、その効果は限定的で、副作用のほうが問題だったと薬学の本には書いてある。
おそらく、このような特殊構造のために、人体は拒否反応を起こすのではないだろうか。現在では、ハンセン氏病の特効薬として用いられることはまずない。

私が論文の推敲をしているうちに、夜は白々と明け、小鳥のさえずりさえ聞こえてきた。
階下では母が起き出したようで、台所に気配を感じる。
私は、ちゃんちゃんこを羽織って階下に降りた。

「おかあちゃん、おはよ」
「尚子(なおこ)、また徹夜かいな。しまいに体こわすで」
みそ汁のだしをとりながら、私の方を向かずに言う母。
「まだだいじょうぶや。日頃から肉食べてるし」
「あんた、ニンニク臭いで。彼氏に嫌われるで」
「ほっといて。彼氏なんかいいひんわ」
嘘である。同じ研究室の長谷川直人と私は付き合って半年が経っていた。
おととい、焼き肉を食べに行ったのも彼とである。

一月の終わりに顔を出してから二週間ぶりに大学の門をくぐった。
キャンパスの西の端に応用化学科の建物がある。
そこまで銀杏並木を歩き、少し坂を上って丘の上に応用化学科棟があった。ふりかえると、三島郡から眺める淀川と枚方市方面が広がる。
関理大キャンパスは三島郡と高槻市にまたがっていて、この応用化学科棟は高槻市に属するらしい。
「おはようございまぁす」
私は二階の研究室のドアを押し開け、挨拶を発した。
「よぅ」と返事をしたのは長谷川直人だった。彼は白衣姿でメルクインデックスを繰っているところだった。
メルクインデックスとは世界的化学品・製薬メーカーのメルク社のいわば化合物カタログである。
化学構造式や諸性質も記載されているのでアルドリッチ社のものと並んで私たちはよく使っていた。
「先生は?」
「教授会」「ふぅん」
私はコートをロッカーに仕舞って、携えてきたブリーフケースを自分の机に乗せる。
「ペーパー(論文のこと)はできたんか?」と直人が訊く。
「アブスト(アブストラクト:要約、緒言)はね」
「アブストだけ?まさか」
「あ、いや、本文もほとんどできてんのよ。ただガスマスの整理がちょっと」
ガスマスとはガスクロマトグラフ(成分分離分析)とマススペクトル(質量スペクトル)分析が一緒になった装置で、試料の分子構造まで割り出してくれるすぐれものである。
私たちの部屋は、「文献部屋」と称して、実験室や装置室とは分けられて、私物を入れるロッカーと机とパソコンと本棚しかない部屋である。
ほかに部内での発表をする小会議室がある。
「なあ、なおぼん」
私の背後に直人が立っていた。
「なんやのん?」
するとそれには答えずに、直人の指が私の首筋をなぞる。
「いやん、ちょっと、やめてぇな」
私は拒否したが、口だけだった。もう直人の顔が私のほほに接しようとしていた。
「好きや…」
私たちは、もうすでに深い仲になっていた。この狭い文献部屋で何度か交わったこともある。
卒研生や院生が入ってこないとも限らないし、何より川瀬教授に見つかったら目も当てられない。
「だれか来たらどうすんのよ」
「来いひんて。こんな早う」
そういうと、我慢できないという感じで直人が私の唇を奪ってくる。
はむ…
私の首が捻じ曲げられるようにして、直人がさらにかぶさってくる。
彼の手が、ブラウスの合わせ目から侵入を企てる。
尺を取るような指の動きで、乳房が掻きだされようとする。
私はそれだけで潤ってしまっていた。
誰かが入ってくるのではないかという緊迫感が、より二人を興奮させているのだった。
直人が高まりをズボンの上から触らせる。いつものことだった。
それは、私の手に抗うようにせりあがってきた。
その間も私たちは口づけを続けていて、いい加減、息苦しくなっていた。
はふぅ…どちらからともなく口を離し、見つめ合う。
「やっぱ、ここではまずいから、今晩、おれのマンションに来いや」
「う、うん」
私は、お預けを食らった子犬のような表情をしていたかもしれない。
いつもなら、強引に直人は行為に及ぶのに、今日はあっさりと矛を収めてしまった。
もうすぐ九時なので、卒研生が入ってくる可能性が高いのだった。
案の定、院生の高橋良樹がリュックを肩にかけて「ちわーっす」と言って入ってきた。
私たちはすでに離れてそれぞれの机に向かっていたから、勘づかれることはなかった。
続いて教授が会議から戻ってこられ、私たちは起立して挨拶をする。
「横山さん、二週間ぶりやね」
相好を崩して、川瀬教授が私に語り掛けてくれる。
「すいませんでした。長いこと」
「どや?だいぶできた?」
「文章はもうできてるんですけど、挿入するガスマスのチャートとフラグメントイオンの図の位置をせんせに見ていただきたいんです」
「ああ、見せてもらうわ。そうや、もうちょっとしたら小会議室で打ち合わせをやろやないか」
「はい」
その時には、直人は部屋にはおらず、どこかに姿を消していた。
廊下に出ると、卒研生が二人、レポート添削の順番を待っていた。彼らは、同室の館山和美准教授の下で研究をしている市原と宇野という学生だった。彼らは私を見ると軽く会釈をした。

川瀬教授は、四十過ぎの苦み走ったダンディな風貌で、一つ欠点があるとすれば、背が低いというところか。
私の身長が165㎝ぐらいなので、並んで歩くと教授も同じくらいなのだ。
会議室に二人で入る。
私が壁際のエアコンと電灯のスイッチを入れる。教授はホワイトボードをカラカラと近くに引いてくる。
「じゃ、そっちに掛けて」「はい」
長机を整え、折りたたみ椅子を引いて私は座った。教授もはす向かいに座る。
エアコンが効いてくるまでは底冷えがする部屋だった。私は、論文の推敲の終わった部分をブリーフケースから取り出し、机から持ってきた実験資料でパンパンに膨らんだレバーファイルを前に置く。
私は促されるまま、これまでの経緯を話し、混乱を極めている図面集の整理の途中経過を教授に見ていただいた。
「こりゃ、ずいぶん、ため込んだね。…いちおう、日付順にはなってると…」
教授が、チャートの折れ曲がったものや、たたんだものを丁寧に広げながらマジックインキで番号を隅に振っている。
「あ、それがフラグメントイオンのチャートなんですけど、試薬をこぼしてしまって」
「汚いなぁ、このまま載せるわけにはいかんなぁ。フロッピーに入ってるだろ?」
「今日、もう一度、印刷してみようと思ってます」「そうして」
「あのさ」「はい?」
「こんどの土曜に、うちに来ないか?」「え?」
「いやね、家内が旅行に行ってて、誰もいないんだよ」
それはどういうことなのだろうか?
私を誘って、先生は、つまり私がほしいということなのだろうか?
「私は、別に予定もありませんが…奥様がいないうちに私が先生の所に行くなんてことは、ちょっと」
私も子供ではないから、常識的な受け答えをした。
「このままじゃ、論文審査に間に合わないだろうから、次善の策をうちで練ろうじゃないか」
そう来たか…できの悪い私に博士論文を手伝ってやろうというのだ。体と引き換えに…
私は、博士課程に進んだときに、友人の中村聡子に忠告されたことを思い出した。
「川瀬教授はプレイボーイやで。気ぃつけや」と。
聡子は、修士時代の同窓生だったが、さっさと結婚して今は一児の母になっている。川瀬教授と彼女との間に何があったのか知らないが、そういう気になることを言ってくれたのだった。
そしてそれは現実のものとして今、私の身に降りかかっている。私は、教授の目を見て、また俯せた。
「どう?」畳み込んでくる教授。
「わかりました」と、私は観念したのである。
会議室から出て、私は、今日、長谷川直人と約束したことを思い出した。
彼には、このことを知られてはいけない。
私は、もやもやした気持ちでその日を過ごした。