足利市の知的障碍者の施設が運営するワイナリーをNHKの番組で見た。
COCOFARM&WINERY
もう60年以上の歴史があり、そこでブドウを育て、収穫し、ワインの醸造までおこなっている。
沖縄サミット(第26回、2000年7月)のときには森喜朗首相(当時)がクリントン米大統領(当時)ら各国首脳に振舞われたワインがここのワインで、健啖家のシラク仏大統領(当時)をうならせたという。

知的障碍者が、労働において健常者と変わらない、むしろそれ以上の丁寧な仕事をして評価されるという「可能性」を見事に我々に見せてくれたのだった。
私が何より感動させられたのは「労働の喜びを感じている」という彼らの言葉だった。

久しく私たちが忘れていたこの言葉を、青空の下、額に汗しながら知的障碍者の人々が笑顔で言ってくれたのだ。
そうだ。労働し、ごはんを食べ、明日に備えて眠るという根源的な人間の営みだ。

労働の対価というマルクス主義以来の言葉がある。
賃金のことと考えてもよいが、そこにこだわることで労働の喜びは遠ざかっていくことを我々は気づいていない。
「カネのために働く」という言葉を平気で吐き、それが「美徳」のような気さえしてくる。
ちょっと昔までは「おまんまのために働く」と言ったが、それよりもずっとプリミティブで、飾り気がない。
私は「カネのために働く」という「どストライク」な言い方が嫌いだ。
身もフタもないではないか?
もう一度、COCOFARMの知的障碍者の方たちの「労働の喜び」を思い起こそう。
その日、ちゃんと食べられる生活があれば、人々は幸せなはずである。
その中で、良いワインを作ろう、良いブドウを育てようという精進は「仕事の愉しみ」でもあるはずだ。
これが「たくさん売ろう」、「もっと儲けよう」となったとき、労働の愉しみはだんだん失われ、気づかぬうちに仕事に振り回されるようになる。
こんなことを書くと、「共産主義者か?」と言われそうだが、そういった主義主張以前に、労働の愉しみは皆が感じていたはずなのだ。
産業革命が興り、労働者階級が生まれ、賃金のために働くようになってから、人々は仕事に追われ、仕事に縛られるようになった。
実業家の草分けである渋沢栄一も、幼少期の藍や養蚕の仕事に従事して、その仕事の喜びを感じていたという。しかしながら、その仕事には搾取がつきまとい、代官や領主という武士階級が威張り散らして、その理不尽に栄一が目覚めるのだった。
搾取さえなければ、藍の仕事は面白く、またやりがいのある労働だったのだ。

すると労働の対価を賃金と置き換えたときに、労働者の労働に対する向き合い方も変わってしまったのだと思うのだ。

自由主義では「より多く稼ぐために働く」といういい方になるが、もっと言うと「濡れ手で粟をつかむように楽して儲ける」方法を見出した者が勝者となる。
そして自由主義・資本主義では「食べるだけ」では足りず「貯え」て「投資」するような金の使い方になるのであり、現在の経済学はマクロな立場で未来を予測し、その日暮らしの台所事情など歯牙にもかけない。

「その日暮らし」の何がいけないのだろう?
自分のできることをしっかりやって、明日は今日より、もう少し「うまくやろう」という程度のイノベーションで私はいいと思う。
「うまく」やらなくても「今日とは違う方法を試してみよう」でもいい。
人と競争する必要はないと思う。
人とは違うものを自分は持っているんだというだけでモチベーションは上がるはずだ。
毎日、ブドウと向き合って、夕飯に仲間と自分たちのワインを傾けることが至福の時とは、なんと幸せな生活だろう。
お金は稼ぎすぎてはいけない。稼ぎすぎたら、社会に還元すべきだ。
渋沢翁の言葉だ。
私はこのブログで「経済とは、カネのあるところからカネを取ってくるもの」と嘯(うそぶ)いてきたけれど、それは違うのだと最近思うようになった。
やはり、お金は必要だが、それは日々の労働への感謝の賜物だと思い、それでつましく食べて、好きな本を読んだりできればそれでいいと、今更ながら思うようになった。
貯金や保険はもういらない。ある分だけで満足したい。

もとより金もうけに縁のない生活をしてきたから、負け犬の遠吠えに聞こえるだろうが、世の中の人は稼ぎの多寡ばかりを話題にし、それで人を測ることへの私なりの抵抗である。
スポーツマンが何億と稼ぐことへの嘆息と、「スポーツが好きなのか、カネが好きなのか?」とスポーツ選手に問いたいとも思っている私。答えは明白だろうが。

小説家でも、コメディアンでも、芸術家でも「稼ぎ」を目的化してしまい、そんな彼らの作品まで俗っぽく感じてしまうのだ。

するとあのCOCOFARMの知的障碍者たちの澄んだ目に、私は救われる思いがするのだ。

仕事と食事と就寝だけで生きてはいけるが、余暇も必要だろう。
身の丈に合った余暇を楽しむ心の余裕が必要だと思う。
そのためには教養が必要だし、みずから創作することで足るを知ることができるだろう。
SDGsの実践は、そういう当たり前の生活から導かれるものだと思う。

流行に影響され、贅沢することが余暇だと思う人は、今一度考え直した方が良い。