俺は、雨の中を北に進んでいた。
カスタムの「カローラ・レビン」で、その白黒ツートンの車体に大型トラックのしぶきを浴びせられ、追い越されて一人毒づいていた。
「ちっ…俺のどこがいけない?」
俺は、石田志保の別れ際の言葉を脳裏に再生していた。
『やっぱり、ごめんね』
そう言って志保は、俺の傘の中から飛び出していった。

午後から降り始めた雨はだんだん本降りになって、ワイパーも強めにしないと視界が悪かった。
後ろからウィンカーを出して追い越そうとする後続車がルームミラーに映る。
「行けよ」と、俺は声に出した。
淡いグレーだろうか、雨の夜道では、はっきりしない色のシルビアだった。
志保の愛車がシルビアだった。あまりのタイミングの良さに苦笑した。
「ふぅん。フルチューンのシルビアには勝てねぇな」と、俺が独りごちる。
追い越したシルビアがフルチューンかどうかわかりはしないが、俺の経験から後輪駆動の車にはコーナリングで勝てたことがないという思い込みから、つい、つぶやきが出てしまったのだ。

今から三年程前だったろうか?
稲葉海岸でイキがっていたころの話。
このレビンを兄貴から譲ってもらって、いじっていた。
兄貴はテラノに買い替えて、彼女さんとバス釣りやらキャンプに忙しいらしい。
俺だってほんとはシルビアかスカイライン、つまりニッサンの車が欲しかったのに、カネがないので「お古」をいただいたわけだ。
トヨタ車でもレビンやトレノは「走り屋」にとっては、ホンダのシビックとかインテグラと並んで人気だった。
稲葉海岸の東端から国道が山を登り始め、岩船峠までヘアピンを三か所曲がって到達する。
その坂を、俺たち「峠族」は攻めに攻めた。
そんな中に志保がいた。
紺のつなぎに身を包んで、淡い藤色のメタリックで決めたシルビアを駆っていた。
女のドライバーは数人いたが、志保はどこか違って見えた。
たぶん、彼女が大学生だったからではないだろうか?
走り屋なんかたいてい中卒か高卒である。それも女で大学生なんて、不思議すぎた。
志保は、おれのレビンを見て「イケてるわ」と小ばかにしたようでもなく、普通に感想を述べた。
「あんたのシルビアにはかなわんよ」とそっけなく俺は答えたと記憶している。
年のころで言えば同い年の彼女だった。
「シルヴィはね、そんなに改造(さわ)っていないのよ」
彼女は愛車をそう呼んだ。
見れば確かにエキゾーストパイプは純正だし、シャコ(車高)も低くない。
内装はフィルムで見えないが、バーも入れていないようだ。

出会って二か月ほどしたころだったか、志保が「乗ってみる?」と言ってキーをよこしたのである。
「そんなにシルヴィが好きなら、乗ってみなよ」と志保は俺に言うのだった。
もちろん志保を助手席に乗せてだ。
俺は高揚する心を抑えつつ、初秋の峠道を彼女のシルヴィアで登った。
人の車なので控えめなハンドリングだったが、路面にしっくりと吸い付くコーナリングはさすがだった。
ステアリングホイールは、カシュー材かマホガニーかわからないが木製にカスタムしていて、握りも反応もよかったし、クラッチの切れもよく調整されていた。
「クラッチ板、替えたばかりなのよ」訊いてもいないのに、志保は言った。
「そ、そうだろな。いいよ。すごいよ」俺はそう言うしかなかった。
セカンドからサード、トップ、そしてエンジンブレーキと一通り楽しませてもらい、下りは志保にバトンタッチした。
するとどうだろう。
シルビアが生き返ったように跳ねだした。
俺が転がしていたときは「お客様」扱いしやがって…
志保のハンドリングはスムーズで、車なりに合わせるタイプだった。
俺みたいにがむしゃら感がまったくなかったのに、コーナーのコース取りが一番決まっていた。
「結局、力学なのよね」
「はぁ?」俺は訊き返した。
「物理法則にしたがうってわけよ。運転も」
涼しい横顔で志保が、はっきりと言った。
俺はそのとき、恋に落ちた…完敗だった。
志保は、俺の申し出を断るでもなく、受けてくれた。
別に「彼氏」とかはいないような口ぶりだった。

そのころの志保は、なんと私大の工学部に籍を置いていた。
どうりで、言うことがしっかりしているわけだ。

そんな彼女との蜜月が終わってしまうなんて…
雨はますます激しくなっているように思えた。
寒冷前線の影響で北ほど雨が激しいのだそうだ。

俺は高速を降りて、一般道に入り、どこかで夕食を取ろうと考えた。
「あたご食堂」と見える路地駐車場の大きな、めし屋に入る。
ダンプやトラックも停まっていたので、そこそこ期待できた。

料理の匂いがむせ返る店の中は、四人ほどの客がてんでに座って、新聞を読んだり、麺類をすすっていた。
「いらっしゃい」小母さんが手を拭きながら言い、俺は一人なのでそのままカウンター席に座る。
「醤油ラーメンと…ギョーザ一人前」
俺は周りを見回すようにして注文を告げる。
小母さんが「はいよ」と言って厨房に消えた。
中華専門というわけではなく、麺類一般と定食、カレーライスなんかもメニューにあった。
外は暮れなずんでいた。
「おまちどお」そう言って、小母さんがラーメンとギョーザの皿をおれの前に置いた。
「あ、ども」
俺は忘れていた空腹感が一気に押し寄せてくるのを感じた。
キラキラと輝くレンズのような油滴…麺がたゆたって、焼き豚ともやしを乗せている。
俺は、おもむろに割りばしを取り、顔の前で割る。
レンゲでつゆをすくい、一口すする「あっちぃ」。
魚類のだしが効いているのが、バカ舌の俺でもわかった。
麺を二口ほどすすり、噛んでいるうちに、無念さが鱗のように心に生えてくる。
俺は、目の前に積んである小皿に手を伸ばし、ギョーザのたれを注ぐ。
店の入り口の上にテレビが備えてあって、ニュース番組が流れていたが、何を言っているのか聞こえているのにわからない。
熱い汁がギョーザから口の中に溢れ、鼻からラー油とニラの香りが抜ける。

俺と志保は会えば、体を求め合った…
俺から誘う時もあれば、志保から「しよう」と言ってくることもあった。
理系の女というのは、あけすけなところがあるらしく、性に対しても積極的だった。
もっとも、俺にとって初めての相手であったから、比較対象はなかったが。
志保は、おそらく俺が初めてではないようだった。
一度、それとなく行為の後で訊いてみたことがあったが、うまくはぐらかされた。
そんなことはなくても、あのイキ方はとうてい俺が最初の男という感じはしなかった。
ラブホだからいいようなものの、あの時の志保の声はすごかった。
こっちが驚いて萎えてしまうくらいだ。十九の童貞には過ぎたタマだったということだが、俺も男だから、そこまで開けっ広げにイク女、そいつをイカせている俺にだんだんと興奮したものだ。
「俺たちは相性がいいみたいだ」「そうね」
お互い確認し合ったのに…なぜだ?なぜなんだ?

そんなことを思い巡らせているうちにどんぶりが空になり、ギョーザも最後の一個になった。
俺はそれを口に放り込んで、勘定を済ませる。しめて550円と安かった。

雨の中、また俺はレビンを転がしていった。
県道をしばらく行くと、アミューズメント施設があった。
プールバーやゲームセンター、ボーリング場まである建物だったが、駐車場に車はまばらだった。俺はトイレにも行きたかったのでネオンに誘われるようにその駐車場にレビンを滑り込ませる。
雨はやや小降りになっている。

ゲーセンのほうにトイレがあり、クレーンゲームやピンボールの間をすり抜けて、その奥にトイレの表示が見える。
にぎやかな音をたてているピンボールの一台に、細身の女が肩をいからして、夢中になっている。
他にはゼビウスをやっている猫背の男がいた。
女がピンボールを懸命にやっているというのは、珍しい構図だった。赤いキャップを被ったその横顔はなにやら険しく、若いのか、年食っているのかにわかには判じられなかった。
半袖からのぞく二の腕は、筋張っていて、力仕事でもやっているのかもしれない。
志保と比べたら、どこか生活苦を匂わせているような女だった。
俺は女の後ろを通り過ぎてトイレに向かった。

消臭剤のきついトイレから出ると、女が「くそっ」と言い放ったところだった。
「789450」と、ニキシー管の橙色の点数が光っている。
そして女と目が合った。
初めて、女がはにかんだようにうつむき、また俺を見る。
「めずらしいね。女がピンボールなんて」俺は、自分から口を開く。
「でしょ?でもスカッとするのよ。点数が半端ないじゃない?」
確かに、ピンボールは得点がバカスカ入るようになっている。
「ああ、わかるよ。姐さんは、この辺の人?」
「そうだけど、あんたは?」
「通りすがり…トイレを借りに入っただけ」
「ふぅん」値踏みするような目で俺を見る。
「そのスタジャン、いかしてるわ」
俺のジャンバーは、U.S.NAVYのコピー品だった。正確にはスタジャンではない。
「そうかい?姐さんのキャップもいいじゃないか。カストロールかい」
「しらないけど、弟がいらないからってくれたのよ。あたし、毛が薄いからかぶってんの」
訊いていないことまでしゃべる女だった。年齢は四十は超えているだろう。
俺にしちゃオバさんだけど、妙にそそる色気があった。
プーマのジャージが若く見せているのかもしれなかった。
「今日はもうやめよっと」そう、自分に言い聞かせるように女が言って、台から離れた。
「姐さんは車?」
「そうよ。こんな雨の中、傘さしてゲーセンに来る人いないわ」
「車があっても、来ないよ」
「ふふふ、そうよねぇ。あんた、この辺の人じゃないね」
「だから、通りすがりって言ってるだろ」
「予定あんの?」「ない」「うち来る?」「え、いいの?」「面白そうだから、相手になってあげる」
どういう意味なんだろう?俺はとっさに考えた。
「あ、あの、お金ないよ」
女は破顔一笑して、
「もう、何考えてんのよ」と睨んだ。
表に出ると、もう雨は小止みだった。
「あたしんちは、この国道を下ったところ。ついてきて」
そう言うと女は、軽の黒のミラの助手席に滑り込んだ。俺も遅れないようにレビンに乗り込む。
ミラの後について、レビンが追走した。

ミラの停まったところは「民宿はらの」と凹んだ看板の立っている、露地の駐車場だった。
ライトに照らされて見えるのがその民宿らしく、どうやら民宿の「若女将」ってとこだ。
俺もミラの横に車を付けた。
「うち、民宿なんよ」
「そのようだね」
「今はシーズンオフで、予約も入んないけど、あんた一人くらいなら大丈夫よ」
どうやら宿を提供してくれるらしい。
海が近いのか、磯の香りが漂っていた。

(つづく)