恋すてふ わか名はまたき 立ちにけり 人知れすこそ思ひ初めしか (百人一首四十一番)

(あの子に)恋をしているという おれの名はまだ知られていないと思っていたけれど、もううわさになっているようだ。人に知られないように思い初めていたはずなのに…

壬生忠見(みぶのただみ)は、忠岑(ただみね)の息子らしいが、名前が紛らわしい。

有明のつれなく見えし別れより 暁はかりうきものはなし (百人一首三十番)

明け方に、あんたはつれないしぐさで身支度して出て行こうとしなはる。日の出なんかうっとうしいこっちゃなぁ(もうちょっとイチャイチャしまひょうな…)。

これが親父のほうの歌。どっちもどっちである。

今来むと いひしはかりに長月の 有明の月を待ちいてつるかな (百人一首二十一番)

「今すぐ行きまっさかいに、待っとくれやっしゃ」と言わはったけど、一向に来はらへん…もう九月の夜明けの月を待ってしまいましたわ。

素性法師という坊さんの歌なんだが、何を考えとるのか?
おそらく在俗時代の思い出を「女の気持ちで」謳ったのだろうが、法師の名で後世まで残るのにやめときゃいいものを。

素性法師の歌は恨み節である。
「行く、行く言うて、来ない」、いわゆる「行けたら行くわ」の関西人らしい言葉を真に受けて、九月まで待ちぼうけをしたというのだからね。

そうすると、壬生忠岑の歌がもっとも妖艶で、やることをやった後の感慨を述べたものだけれど、忠見と素性のものは「未遂」で恋が成就していない歌と見える。

結婚していない男女、ことに不倫の男女が交わって朝を迎えるという「情交」の別れはいつの時代にも、気持ちが昂(たかぶ)るのである。
私だってそうだ。
「今度いつ会える?」
「また連絡するよ」
「奥さんには内緒よ」
「当たり前じゃないか。ばれたらぼくたちは終わりだ」
「もう一度、抱いて」
「ばかだな…」

つまりこういうことだ。
みなまで言わせないでよ。