ここ宇治市には「京都アニメーション」が手掛けた学園アニメ『響け!ユーフォニアム』の舞台になったゆかりの場所がいくつかある。
そういう場所を、アニヲタというコアなアニメファンが「巡礼」と称して訪れる。
最近のアニメーションの舞台は実在の場所をさながらロケハンのように使うので、ファンもその空間を味わいたくて、群れを成してやってくるのだった。
地元も観光客が、どんな理由であれ増えるのは歓迎するので、アニメ作品と連動した町おこし事業も展開される。
昨今は、日本のファン以外に、海外からもファンが巡礼に訪れるので、宇治市も大変な賑わいになっている。
その「京都アニメーション」が、放火という惨劇にみまわれ、多くのかけがえのない人材が失われた。
これは日本だけにとどまらず、世界においても損失だと言わざるを得ない。
ゆえに「京アニ」関連の場所はすべて「聖地」になり、まさに「聖地巡礼」の様相を呈している。
ところで、聖地巡礼という行動は古来より「信仰」の一環として行われてきた。
そもそもは、そういうものを「巡礼」と言うのであって、アニメファンのそれは借用である。
ただアニメファンにおいてもアニメ作品自体が「信仰対象」であるならばその心は同じと言っていい。
生きづらい今日(こんにち)、人々は「縁(よすが)」を望むものだ。
自分ではどうにもならない、恵まれない境遇(本人がそう思っているだけかもしれないが)から逃れたい、しかし死を選ぶには勇気がない…そういった多くの「迷える人々」が、美しいアニメの世界に心の安らぎを求めたとしたら、聖地巡礼も当然の帰結だろう。
その昔、西方に浄土を求めた人たちや、それを現世に具現しようと美しい庭園を築かせた貴族たち、列をなすチベットの巡礼者たち…枚挙にいとまがないほど例はある。
なかでも補陀落渡海という、死後の世界を本気で求めて大海に船出した僧侶もいる。
このエネルギーはどこからくるのだろうか?
アニヲタの聖地巡礼も、韓流スターの追っかけも、みな、エネルギーの発露としては同根なのかもしれないと、私は思うようになった。
生きづらい世の中から逃避する手段が聖地巡礼なのかもしれない。
振り返って、私にもそれはあるようだ。
私は、現実から逃げるように本に走った。
それは本が身近にあったからにほかならないが、本の世界に没頭することで、時間を忘れ、死への恐怖を忘却させるのだった。
本から顔を上げると、そこにはやりたくない仕事や、面倒な事柄が山積している。
やらなければならないのに、本の世界に逃げるのだ。
私の聖地を本のどこかに見つけようと必死なのかもしれない。
このまま補陀落浄土に向かって、私は波間に漂うのだろうか?
このまま西方浄土に向かって、歩み続けるのだろうか?
私は知らない。
そういう場所を、アニヲタというコアなアニメファンが「巡礼」と称して訪れる。
最近のアニメーションの舞台は実在の場所をさながらロケハンのように使うので、ファンもその空間を味わいたくて、群れを成してやってくるのだった。
地元も観光客が、どんな理由であれ増えるのは歓迎するので、アニメ作品と連動した町おこし事業も展開される。
昨今は、日本のファン以外に、海外からもファンが巡礼に訪れるので、宇治市も大変な賑わいになっている。
その「京都アニメーション」が、放火という惨劇にみまわれ、多くのかけがえのない人材が失われた。
これは日本だけにとどまらず、世界においても損失だと言わざるを得ない。
ゆえに「京アニ」関連の場所はすべて「聖地」になり、まさに「聖地巡礼」の様相を呈している。
ところで、聖地巡礼という行動は古来より「信仰」の一環として行われてきた。
そもそもは、そういうものを「巡礼」と言うのであって、アニメファンのそれは借用である。
ただアニメファンにおいてもアニメ作品自体が「信仰対象」であるならばその心は同じと言っていい。
生きづらい今日(こんにち)、人々は「縁(よすが)」を望むものだ。
自分ではどうにもならない、恵まれない境遇(本人がそう思っているだけかもしれないが)から逃れたい、しかし死を選ぶには勇気がない…そういった多くの「迷える人々」が、美しいアニメの世界に心の安らぎを求めたとしたら、聖地巡礼も当然の帰結だろう。
その昔、西方に浄土を求めた人たちや、それを現世に具現しようと美しい庭園を築かせた貴族たち、列をなすチベットの巡礼者たち…枚挙にいとまがないほど例はある。
なかでも補陀落渡海という、死後の世界を本気で求めて大海に船出した僧侶もいる。
このエネルギーはどこからくるのだろうか?
アニヲタの聖地巡礼も、韓流スターの追っかけも、みな、エネルギーの発露としては同根なのかもしれないと、私は思うようになった。
生きづらい世の中から逃避する手段が聖地巡礼なのかもしれない。
振り返って、私にもそれはあるようだ。
私は、現実から逃げるように本に走った。
それは本が身近にあったからにほかならないが、本の世界に没頭することで、時間を忘れ、死への恐怖を忘却させるのだった。
本から顔を上げると、そこにはやりたくない仕事や、面倒な事柄が山積している。
やらなければならないのに、本の世界に逃げるのだ。
私の聖地を本のどこかに見つけようと必死なのかもしれない。
このまま補陀落浄土に向かって、私は波間に漂うのだろうか?
このまま西方浄土に向かって、歩み続けるのだろうか?
私は知らない。