昭和歌謡をこよなく愛する森田検索とカラオケにいったのね、そしたら、
「おまんた囃子」(三波春夫)
を、いきなり歌うっていうから、「じゃ、どうぞ」と分厚い本で選んでやった。
あるもんだね、こんなめずらしい歌が。
もちろん「おまんた」には、いやらしい意味はない。
「おまえさん」という意味のどっかの方言だね。
やつの「美声」で頭が痛くなったんで、私は、
「有難や節」(守屋浩)
を歌ってやった。「勉強(べんきょ)ばかりじゃ親不孝~」沁みますねぇ。
これはね、ずいぶん昔にね、父親が好きだったんだろうね、よく家でお酒が入ると歌ってた。
皮肉な歌詞なんだけど。
ありがたいことなんかあるけぇ!
負けじと、今度は、森田のやつ
「芸者ワルツ」(神楽坂はん子)
を唸り出した。
こんなの良くあったなぁ。
「あんたさ、龍大で何やってたん」
※龍大とは彼の出身校の龍谷大学のこと。
「昭和クラブ」
「なんじゃそりゃ」
「だから、昭和歌謡を掘り下げる同好会やね」
「そんなんあるの」
「作ったんですよ」
「何人いたん?」
「最初は、堀田という同期の男とふたりでやってたんやけど、卒業のころには六人に増えてたね」
「へえ、単なる飲み会じゃないの?」
「ま、そういう面もあったけどね。堀田はレコード店の息子でね、おれよりよく知ってた」
「もしかして、羅城門のところにあるレコード屋じゃないの」
「え、知ってるの?」
「あそこ、まだやってんの?」
「やってるんやないかな。閉めたとは聞いてないから」
龍谷大学のキャンパスの門前にバス通りがあるんだけど、その並びに古臭いレコード屋があった。
「じゃ、あたし、これ」
そう言って、島倉千代子のセリフ入りの「東京だよおっかさん」を熱唱してやった。
森田がいたく感動して、泣いてやんの。
「ほんなら、おれは」と「お富さん」(春日八郎)をやりだした。
「ねえねえ、玄冶店(げんやだな)って何?」
「よく訊いてくださった」
また始まった。
森田のうんちく。
彼の話では、日本橋人形町にある地名だそうで、どうやら人名が由来らしい。
幕府御典医の岡本玄冶(おかもとげんや:1587~1645)は家康の晩年に活躍した、道三流医術の医師で、特に徳川家光に仕えたらしい。
なんでも家光が痘瘡に罹患した時に快癒させたとかで、玄冶は名を上げたのだそうだ。
※道三流とは曲直瀬道三(なませどうさん:1507~1594)が興した医術。
それで、その玄冶が幕府から拝領した土地が、その人形町付近一帯だったわけで、彼はそこに家賃の安い借家を建てて人々に提供したので、その借家のことを玄冶店と言うのだそうだ。
つまり、「お富さん」は玄冶店の一部屋を借りて住んでいたんだね。
歌川国芳も玄冶店に住んでいたと伝えられている。
以上が森田の話に私が少々付け加えたものだ。
令和になって、昭和はとても遠くなった感がある。
歌謡の分野でもそれは顕著だ。
私のような古い人間に、今の歌は、なじみにくい。
テンポが速すぎるし、歌詞の意味がわからない。
英語なら英語、日本語なら日本語、はっきりしてほしい。
もちろん私は英語の歌も聴きますよ。
「おまんた囃子」(三波春夫)
を、いきなり歌うっていうから、「じゃ、どうぞ」と分厚い本で選んでやった。
あるもんだね、こんなめずらしい歌が。
もちろん「おまんた」には、いやらしい意味はない。
「おまえさん」という意味のどっかの方言だね。
やつの「美声」で頭が痛くなったんで、私は、
「有難や節」(守屋浩)
を歌ってやった。「勉強(べんきょ)ばかりじゃ親不孝~」沁みますねぇ。
これはね、ずいぶん昔にね、父親が好きだったんだろうね、よく家でお酒が入ると歌ってた。
皮肉な歌詞なんだけど。
ありがたいことなんかあるけぇ!
負けじと、今度は、森田のやつ
「芸者ワルツ」(神楽坂はん子)
を唸り出した。
こんなの良くあったなぁ。
「あんたさ、龍大で何やってたん」
※龍大とは彼の出身校の龍谷大学のこと。
「昭和クラブ」
「なんじゃそりゃ」
「だから、昭和歌謡を掘り下げる同好会やね」
「そんなんあるの」
「作ったんですよ」
「何人いたん?」
「最初は、堀田という同期の男とふたりでやってたんやけど、卒業のころには六人に増えてたね」
「へえ、単なる飲み会じゃないの?」
「ま、そういう面もあったけどね。堀田はレコード店の息子でね、おれよりよく知ってた」
「もしかして、羅城門のところにあるレコード屋じゃないの」
「え、知ってるの?」
「あそこ、まだやってんの?」
「やってるんやないかな。閉めたとは聞いてないから」
龍谷大学のキャンパスの門前にバス通りがあるんだけど、その並びに古臭いレコード屋があった。
「じゃ、あたし、これ」
そう言って、島倉千代子のセリフ入りの「東京だよおっかさん」を熱唱してやった。
森田がいたく感動して、泣いてやんの。
「ほんなら、おれは」と「お富さん」(春日八郎)をやりだした。
「ねえねえ、玄冶店(げんやだな)って何?」
「よく訊いてくださった」
また始まった。
森田のうんちく。
彼の話では、日本橋人形町にある地名だそうで、どうやら人名が由来らしい。
幕府御典医の岡本玄冶(おかもとげんや:1587~1645)は家康の晩年に活躍した、道三流医術の医師で、特に徳川家光に仕えたらしい。
なんでも家光が痘瘡に罹患した時に快癒させたとかで、玄冶は名を上げたのだそうだ。
※道三流とは曲直瀬道三(なませどうさん:1507~1594)が興した医術。
それで、その玄冶が幕府から拝領した土地が、その人形町付近一帯だったわけで、彼はそこに家賃の安い借家を建てて人々に提供したので、その借家のことを玄冶店と言うのだそうだ。
つまり、「お富さん」は玄冶店の一部屋を借りて住んでいたんだね。
歌川国芳も玄冶店に住んでいたと伝えられている。
以上が森田の話に私が少々付け加えたものだ。
令和になって、昭和はとても遠くなった感がある。
歌謡の分野でもそれは顕著だ。
私のような古い人間に、今の歌は、なじみにくい。
テンポが速すぎるし、歌詞の意味がわからない。
英語なら英語、日本語なら日本語、はっきりしてほしい。
もちろん私は英語の歌も聴きますよ。