大江健三郎が若い頃、結婚して第一子をもうけたころに書いた申告の小説だそうだ。
大江氏の長男が脳に障害をもって生まれてきたことは広く知られている。
物語は「鳥(バード)」と周囲から呼ばれている大江氏とおぼしき人物を主人公として、三人称で語られ、バードの内心を読者が確認できるようになっている。
バードの妻が出産するというのに、彼はその現場から逃げるように街をほっつき歩いている。
子どもの父親になるという事実を受け入れられないでいるらしい。
もともと酒や女に逃げる質(たち)で、酒ではかなり迷惑をかけているようだった。
義父のつてで予備校の英語講師にありついて生計を立てているようで、義母にも頭が上がらない。
その義母が娘の出産に立ち会っているが、バードは定時に病院に電話を入れることを条件に町に出ていた。
男娼に誤解されたり、ゲームセンターで不良どもに絡まれ、あげく喧嘩に巻き込まれて負傷する。
そして男の子が生まれた。
その子は脳ヘルニア(頭蓋から飛び出した脳、胎児では頭蓋が未発達なので起こりやすい)で、頭が二つあるような瘤をもって生まれた。
産科医は奇胎を珍しがる一方、このままでは死を待つほかないとも言い、大学病院に運べばなんとかなるかもしれないともアドバイスをバードにするのだった。
もちろん、妻には内緒である。
妻と義母には「内臓の障害がある」としか伝えておらず、それゆえ新生児に会わせることができないと説明していたのである。
嬰児を大学病院へ救急車で運ぶことに応じたバードだった。
そこでは「持っても数日だろう」と診断され、もし手術して助けるには、もう少し栄養を与えて体力をつけさせねばならないと告げられる。
バードは「ゆるやかに死なせる」方法を求めた。
それは哺乳させずに、ブドウ糖液を与えるだけで死を待つ方法だった。
実は、ここに大江氏の重大な問題提起があったのである。
報道では、障害を持った長男に寄り添うすばらしい父親像として伝えられ、私たちも「尊いことだ」と賛辞を送っていたが、障害を持って生まれた子を受け入れられない、もっと悪く言えば「死んでくれ」という若き父親の切実な心情をこの小説で世に問うたのである。
障害者本人はもとより、その家族にも育てていくうえでの負担がのしかかってくるのは必至である。
それが若い父親にとって、絶望的不安となるのは当然かもしれない。
事実、障害児の母はシングルマザーが多い。これは父親が逃げてしまう例の結果だそうだ。
もともと子育てに協力的でない父親が、こんにち以上に多かった戦後間もない時代の話である。
高度成長期にさしかかり、進学率もうなぎ上りで予備校が繁盛していた時代に重なる。
バードも「官立大学」を卒業していたらしく、その頃の女友達とは今も関係を持っていた。
バードには密かな夢があった。
アフリカで冒険的な生活をすることだった。
そのためにスワヒリ語を学び、ミシュランのアフリカ地図を古書店であさっていたりするのだ。
もちろん妻もそのことは知っていたらしいが、現実問題として夢の域を出ない話と本気に受け止めていなかった。
それよりも、バードが酒で問題を起こすので、両親とこぞって禁酒を彼に命じていたほどだ。
バードは、この奇形児の処理について積極的になれなかった。
優柔不断な態度をとりつつ、自分でもどうしたらいいのかわからないでいたのだ。
困難な問題が立ちはだかると、バードは酒の力を借り、大学時代からの愛人「火見子(ひみこ)」の家に入り浸る。
そこでセックスに明け暮れ、自分を慰めた。
火見子は独身だが、数人の男と関係を保っていた。バードもその一人だった。
火見子は真っ赤なオープンカーを所有しており、夜になるとどこかへ疾走する癖があった。
そして昼間は惰眠を貪っている。
それでもバードの気持ちを察し、バードに寄り添い、みずからもオーガズムを貪った。
大江は先に「乱交」や「痴漢」を題材にした『性的人間』を世に問うて、三島由紀夫に絶賛されたらしいが、この作品でも性的倒錯、とうよりむしろ女体への逃避を感じる。
男性が、母親への回帰、つまりは女に逃げるのは世の常で、それでこそ困難に立ち向かえるのだともいえる。
戦争映画『戦う翼』(スティーブ・マックイーン主演)での男女の交わりがまさしくそうだった。
死と隣り合わせの極限において、パイロットは地上でのつかのまの交歓に身をゆだねるものだ。
バードと火見子は結託して、大学病院の手術を拒否し、嬰児を引き取って知り合いの堕胎医に闇に葬るようゆだねる…
堕胎医のところに向かう赤いオープンカーは雨に会い、雀の死骸をよけようとして脱輪して、ヘッドランプを破壊し、見えている医院なのに道に迷い、なかなか近づけない。あげくに交番で「ヘッドランプが片目だ、整備不良だ」と咎められてしまう。嬰児は虫の息だった。
「私たちは、急いでいるんだ。この子のために」と巡査に奇形児を見せて怖がらせ、医院への道を教えてもらうのだが…この次々に起こる困難は嬰児の「生きたい」という超人的な仕業なのか?
クライマックスが畳みかけるように読者を引き込む。
バードは父親として失格のなのか?
英訳して欧米でも読まれた本作品は、私たちに「命」を問いかける。
旧優生保護法による断種手術や障害者連続殺害事件、ALS患者安楽死事件、着床前診断と命の選択など当事者にしかわからない悩みを、昭和時代にタブーも厭わずに投げかけた大江氏は賞賛に値する。
大江氏の長男が脳に障害をもって生まれてきたことは広く知られている。
バードの妻が出産するというのに、彼はその現場から逃げるように街をほっつき歩いている。
子どもの父親になるという事実を受け入れられないでいるらしい。
もともと酒や女に逃げる質(たち)で、酒ではかなり迷惑をかけているようだった。
義父のつてで予備校の英語講師にありついて生計を立てているようで、義母にも頭が上がらない。
その義母が娘の出産に立ち会っているが、バードは定時に病院に電話を入れることを条件に町に出ていた。
男娼に誤解されたり、ゲームセンターで不良どもに絡まれ、あげく喧嘩に巻き込まれて負傷する。
そして男の子が生まれた。
その子は脳ヘルニア(頭蓋から飛び出した脳、胎児では頭蓋が未発達なので起こりやすい)で、頭が二つあるような瘤をもって生まれた。
産科医は奇胎を珍しがる一方、このままでは死を待つほかないとも言い、大学病院に運べばなんとかなるかもしれないともアドバイスをバードにするのだった。
もちろん、妻には内緒である。
妻と義母には「内臓の障害がある」としか伝えておらず、それゆえ新生児に会わせることができないと説明していたのである。
嬰児を大学病院へ救急車で運ぶことに応じたバードだった。
そこでは「持っても数日だろう」と診断され、もし手術して助けるには、もう少し栄養を与えて体力をつけさせねばならないと告げられる。
バードは「ゆるやかに死なせる」方法を求めた。
それは哺乳させずに、ブドウ糖液を与えるだけで死を待つ方法だった。
実は、ここに大江氏の重大な問題提起があったのである。
報道では、障害を持った長男に寄り添うすばらしい父親像として伝えられ、私たちも「尊いことだ」と賛辞を送っていたが、障害を持って生まれた子を受け入れられない、もっと悪く言えば「死んでくれ」という若き父親の切実な心情をこの小説で世に問うたのである。
障害者本人はもとより、その家族にも育てていくうえでの負担がのしかかってくるのは必至である。
それが若い父親にとって、絶望的不安となるのは当然かもしれない。
事実、障害児の母はシングルマザーが多い。これは父親が逃げてしまう例の結果だそうだ。
もともと子育てに協力的でない父親が、こんにち以上に多かった戦後間もない時代の話である。
高度成長期にさしかかり、進学率もうなぎ上りで予備校が繁盛していた時代に重なる。
バードも「官立大学」を卒業していたらしく、その頃の女友達とは今も関係を持っていた。
バードには密かな夢があった。
アフリカで冒険的な生活をすることだった。
そのためにスワヒリ語を学び、ミシュランのアフリカ地図を古書店であさっていたりするのだ。
もちろん妻もそのことは知っていたらしいが、現実問題として夢の域を出ない話と本気に受け止めていなかった。
それよりも、バードが酒で問題を起こすので、両親とこぞって禁酒を彼に命じていたほどだ。
バードは、この奇形児の処理について積極的になれなかった。
優柔不断な態度をとりつつ、自分でもどうしたらいいのかわからないでいたのだ。
困難な問題が立ちはだかると、バードは酒の力を借り、大学時代からの愛人「火見子(ひみこ)」の家に入り浸る。
そこでセックスに明け暮れ、自分を慰めた。
火見子は独身だが、数人の男と関係を保っていた。バードもその一人だった。
火見子は真っ赤なオープンカーを所有しており、夜になるとどこかへ疾走する癖があった。
そして昼間は惰眠を貪っている。
それでもバードの気持ちを察し、バードに寄り添い、みずからもオーガズムを貪った。
大江は先に「乱交」や「痴漢」を題材にした『性的人間』を世に問うて、三島由紀夫に絶賛されたらしいが、この作品でも性的倒錯、とうよりむしろ女体への逃避を感じる。
男性が、母親への回帰、つまりは女に逃げるのは世の常で、それでこそ困難に立ち向かえるのだともいえる。
戦争映画『戦う翼』(スティーブ・マックイーン主演)での男女の交わりがまさしくそうだった。
死と隣り合わせの極限において、パイロットは地上でのつかのまの交歓に身をゆだねるものだ。
バードと火見子は結託して、大学病院の手術を拒否し、嬰児を引き取って知り合いの堕胎医に闇に葬るようゆだねる…
堕胎医のところに向かう赤いオープンカーは雨に会い、雀の死骸をよけようとして脱輪して、ヘッドランプを破壊し、見えている医院なのに道に迷い、なかなか近づけない。あげくに交番で「ヘッドランプが片目だ、整備不良だ」と咎められてしまう。嬰児は虫の息だった。
「私たちは、急いでいるんだ。この子のために」と巡査に奇形児を見せて怖がらせ、医院への道を教えてもらうのだが…この次々に起こる困難は嬰児の「生きたい」という超人的な仕業なのか?
クライマックスが畳みかけるように読者を引き込む。
バードは父親として失格のなのか?
英訳して欧米でも読まれた本作品は、私たちに「命」を問いかける。
旧優生保護法による断種手術や障害者連続殺害事件、ALS患者安楽死事件、着床前診断と命の選択など当事者にしかわからない悩みを、昭和時代にタブーも厭わずに投げかけた大江氏は賞賛に値する。