四、五年前だったろうか、塾生の当時高校二年生の男の子、辰也(たつや)と実来(みらい)の勉強をみてやっていたころ、『艦これ』と『ガルパン』で意気投合したことがあった。
あたしが、軍艦や戦車の名前を知っていたから、彼らから一目置かれたわけだ。
あたしの中学時代を思い出させてくれた二人である。今は、辰也は丹波のワイナリーに勤めていて、実来は京都産業大学に行っているそうだ。

ただ『艦これ』の「艦娘」のどこがいいのか、あたしにはさっぱりわからずじまいで、『ガルパン(ガールズ・パンツァー)』に至っては、なんと無茶苦茶なアニメなのだと憤ってしまった。

「なおぼんせんせ、これ何て読むんや?」「迅鯨(ジンゲイ)やな」「ほな、これは?」「漣(さざなみ)や」「なんで、そんなん知ってんの?」「あんたらぐらいのときにウォーターライン(艦船プラモデルで洋上に浮かんだ様子を再現するため、吃水(きっすい)で船底を切った模型)に凝ってな。それで」
この「吃水」や「乾舷(かんげん)」などの船舶用語もその時に覚えた。

「楡(にれ、二等駆逐艦)」や「橘花(きっか、日本初のジェット戦闘機)」、「千歳(ちとせ、水上機母艦)」、「愛宕(あたご、重巡洋艦)」、「呑龍(どんりゅう、100式重爆)」、「疾風(はやて、四式戦闘機)」、「晴嵐(せいらん、水上爆撃機、潜水艦イー400に搭載)」、「矢矧(やはぎ、軽巡洋艦)」、「榛名(はるな、戦艦)」などなど、父母に尋ねながら覚えたものだ。

日本の軍艦は命名法がだいたい決まっていて、例外は、軍縮条約逃れで戦艦から空母に変えられたものなど艦種変更があった場合だ。

戦艦には「旧国名」が使われる。「大和」や「武蔵」がそうで、「信濃」はもとは大和型戦艦の三番艦になるはずが、急遽航空母艦に変更されたからである。
未完の巨大空母「信濃」は公試運転中に潮岬沖でアメリカ潜水艦に沈められてしまった。

長く連合艦隊の旗艦(フラッグシップ)だった「長門(ながと)」と姉妹艦「陸奥(むつ)」も旧国名である。「伊勢」と姉妹艦「日向(ひゅうが)」は途中から後部が航空甲板に換装され「航空戦艦」という妙なカテゴリーになってしまった。なんでこんな不思議なことを海軍がしたかというと、ミッドウェー海戦で正規空母を四隻も失ったからである(「信濃」誕生だってそうだ)。

航空母艦(空母)は航空機を搭載することから、飛翔や縁起の良い想像上の鳥や龍、国鳥の鶴を冠した(「翔鶴」や「瑞鶴」など)、猛禽をイメージする名前が採用された(建造中客船から変更された「隼鷹(じゅんよう)」など)。
しかしながら、「加賀(かが)」や「赤城(あかぎ)」という旧国名の空母があるのは、条約がらみで戦艦から建造変更されたからである。

日本初の空母で終戦まで残存した「鳳翔(ほうしょう)」、マリアナ海戦で引火轟沈した「大鳳(たいほう)」は「鳳(おおとり)」をイメージしている。
軽空母「龍驤(りゅうじょう)」は第四航空戦隊で活躍し、その後継の「蒼龍(そうりゅう)」と「飛龍(飛龍)」はミッドウェー海戦で沈んでしまった。
これらの空母は想像上の動物をイメージしている。
潜水艦母艦(潜水艦への補給、修繕)は「大鯨(たいげい)」とか「迅鯨」と「鯨」をイメージする。
水上機母艦(水上飛行機を専門に搭載する艦)は「千歳」や「千代田」と、縁起の良い言葉をつけているが、練習艦には「香椎(かしい)」、「香取」、「鹿島」、「橿原」など神宮の名前が付けられた。
重巡洋艦も条約がらみで、軽巡洋艦とあいまいなカテゴリーになっている。
重巡には山の名前、軽巡には河川の名前が付けられている。
「愛宕」や「高雄」、「鳥海」、「青葉」が山の名前だが、実は戦艦に「榛名」や「霧島」、「金剛」など山の名がつけられているものがあることに気づく。
「榛名」や「霧島」、「金剛」は「巡洋戦艦」という軽快な戦艦で、当初巡洋艦として運用するはずだったのが戦艦にされたためだ。これも条約破りの命名だろう。
軽巡は「矢矧」、「五十鈴」、「夕張」、「利根(元は軽巡として計画、後に重巡)」、「最上(元は軽巡として計画、後に重巡)」、「阿武隈」、「大淀」、「木曾」など、川の名前である。

一等駆逐艦は気象や天文、季節に関する名前である。
「吹雪」、「敷波」、「漣」、「野分(のわき)」、「曙(あけぼの)」、「冬月」、「皐月」、「弥生」、「五月雨」など。
一等駆逐艦のうち丁型と二等駆逐艦は植物の名前が付けられた。
「松」、「竹」、「梅」、「樅」、「楡」、「萩」、「藤」など、終戦後も残存した艦も多く、艤装(ぎそう:艦橋などの構造物や兵装など)を撤去し、艦体を着底させて「桟橋」に使ったりしたそうだ。

潜水艦が特殊で「伊号」と「呂号」の二種があり、それぞれ番号が付され、「イ何号」、「ロ何号」とカタカナと番号で呼ばれた。ロ号にはドイツの「Uボート」を払い下げられたものがあったと聞く。「イ‐400」は、今でも世界最大の潜水艦だったと言われ(2012年に中国に抜かれた)、なんと組み立て式の水上機「晴嵐」を三機搭載しており、アメリカ本土やパナマ運河を爆撃する任務に当たることになっていたがそのまま残存し、姉妹艦二隻とともに米軍に接収されたのち、処分されたという。これは最近分かったことだが、米軍はこの三隻の伊号の性能と巨大さに驚愕し、そのまま利用するつもりが、東西冷戦時のソ連に情報が洩れて、やむなく沈没処分させたということだった。

と、まあ、彼らに以上のようなことを、かいつまんで教えてあげたら、目を丸くしていたっけ。

実は、これらの裏には、ワシントン軍縮会議やロンドン軍縮会議、八八艦隊計画、友鶴事件(ともづるじけん)、第四艦隊事故などの経緯があり、また、陸軍ならびに、海軍軍令部と海軍省艦政本部との複雑な関係などを知ってこそ理解されるのである。
もっとも、日本が自前の軍艦を作れるまでに、イギリスに外注していたり(戦艦「三笠」の例)、日露戦争で鹵獲(ろかく)または払い下げられたロシア軍艦を入手して艦隊を組織したことの経験も大きい。イギリス海軍の建造思想の影響で民間の巨大貨客船を航空母艦に転用すべきであるとして生まれたのが「隼鷹」や「海鷹」だった。貨客船は輸送目的の船舶ゆえ、航空機を多数搭載して、かつ、飛行甲板から飛び立たせる、移動基地の発想に近道だと考えられたからだ。

かつて、日本の造船技術の歴史にもかかわる重大な事故がいくつかあり(友鶴事件、第四艦隊遭難事故)、それは「条約破り」を秘密裏におこなったことと無関係ではなく、またそういった事情が艦船の名前に残ることが多々あったのである。

われわれになじみの深い南極観測船「宗谷(そうや)」の歴史をひもとくだけでも、日本の造船にまつわる事柄が良く理解されるはずだ。